冷蔵庫のヨーグルトの夢をみる、自由

基本的に気に入ったものはリピートするタイプである。

KALDIで豆乳ビスケットを購入し、成城石井でアボカドチップスを選び、スタバでムースフォームラテを頼む。
ペンが出なくなればジェットストリームの替え芯を、手帳がなくなれば新しい高橋の手帳(ウィークリーと決めている)を求めて文房具店へ行く。

繰り返すほど気に入っているというのもあるし、今さら外れを引きたくないというのももちろんあるけれど、現代社会において、選択の自由というのは時に煩わしいのだ。

仕事帰り、駅前のスーパーにふらっと立ち寄り、買い物カゴを手に取るけれど、「…なんだっけ」「えっと…」疲れた頭では独り言をつぶやくのが精一杯。何の食材が家に残っているか、何を作るか、それには何を買い足せばよいか、考えるのも億劫だ。それなら何かそのまま食べられるものを買えばよいのだが、もうそれも決められない。ほぼ残っていないお惣菜売り場の前で佇む羽目になる。売れ残ったお惣菜にはこちらの胃袋に訴えかけるほどの魅力はなく、それらの上に緩慢に視線をさまよわせるだけである。ふらつく私の横から手が伸び、さらに手が伸び、ひとつまたひとつとパックが減っていく。選択肢は減っていくはずなのに、何も決まらなくてただ呆然とする。急にどうでもよくなってその場を離れ、見慣れたパッケージのヨーグルトや豆腐をカゴに押し込んで、とりあえずレジに並び、帰路につく。
帰ったらもう食事が出てきたらいいのに、給食みたいに。そのまま咀嚼して、眠るのに。そう夢想する。
疲労のあまり判断力が低下しているのだ。そんなことがよくある。

syrup16gの「神のカルマ」という曲にこんな歌詞がある。

『最新ビデオの棚の前で 
 2時間以上も立ちつくして
 何も借りれない
 何を借りればいい 
 何本借りればいいんだ
 何を借りればいい』

ビデオという部分に時代を感じるが、この精神状態には共感を覚える。
レンタルビデオショップには、
お金を出して会員になってでも見たい作品がいくらでもあったはずで、
ようやく好きなものを選んでサービスを受けられるという状況なのに、
正常な精神状態でなければ、その自由を謳歌することは出来ないのだ。
むしろ、「決めなくては」「とりあえず何か選ばなければ」と気持ちが焦り、強迫観念が募るばかりである。

豆腐と冷蔵庫にあったものを何となくお腹におさめ
(ヨーグルトは明日の朝に残しておくことにした)、
お風呂に入り、寝床につく。

フロムの「自由からの逃走」に思いを巡らせてみる。
人が疲労など何らかの理由で思考を停止し、決断を放棄するとき。
自由を捨て、何かの権威に頼ろうとするとき。
それらが重なれば、社会が大きく傾き、良くない方向へ、世の中の流れが変わっていく、そんな可能性もある。
それならば。

それならば、しっかり休んで、明日に備えようではないか。

どんな明日を夢みようとも、それは個人の自由である。
ここから先の夢の世界は何をしても自由だし、何も決定しなくたっていい。
いや、現実だとしても、何かを決定しないこと自体は、別に悪いことじゃない。
自由を捨てさえしなければよいのだから。
それも、私に与えられた自由だ。

そう思って眠りについた。























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