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【書評】「ブルデュー 闘う知識人」を読んでみた その2

前回記事の『【書評】「ブルデュー 闘う知識人」を読んでみた その1』の続きの記事です。
前回の記事 https://note.com/s23101400359/n/n069830a3c7ed

・エコル・ノルマル時代

(出所 Wikipedia)
ブルデューは高等中学校学校(リセ)での成績が優秀であったため、校長の推薦でパリのルイ・ル・グラン高等中学校のグランド・エコル受験準備課程に入学し、1951年に名門グランド・エコルの一つであるエコル・ノルマルの哲学科に合格、入学しました。
グランド・エコルとは、フランスにおける大学と並行して存在する教育機関で、人文社会系、理工系、政治・経済・経営学系の高等専門学校です。
エコル・ノルマルはもともとリセの教員養成が目的で1794年に設立されましたが、著名な思想家・学者を輩出するようになりました(サルトル、フーコー、ピケティなど)。
エコル・ノルマルに入学できるのは、文科・理科ともに40人前後という非常に狭き門です。学生は準公務員扱いになり、小学校教員並みの給料をもらうため、財政上、定員を増やせないからだそうです。

エコル・ノルマルではブルデューのような農民や工場労働者の家庭出身の学生はきわめて少数です。食堂で学生に給仕する職員は、部屋を掃除する家政婦たちと同じく、ブルジョア階級出身の学生たちからすれば目に入らない存在でした。ところが、その中にはブルデューの地元であるベアルン地方出身者が多かったのです。ポーのリセと同じく、ブルデューのエコル・ノルマルに対する感情も両義的にならざるを得ませんでした。
エコル・ノルマル2年目でライプニッツのテクストの翻訳・注釈で修士号を得たブルデューは1954年、哲学教授資格試験に合格しました。
卒業後、フランス中部のリセに哲学教師として赴任しましたが、アルジェリア戦争の勃発による兵役により1年間しか続きませんでした。

・アルジェリア戦争と社会学への転向

(出所 Wikipedia)
アルジェリアについて何も知らずに一兵卒として現地に派遣されたブルデューは、フランス軍とアルジェリア解放戦線の凄惨な殺し合いを目にして狼狽するほかありませんでした。しかし彼は、兵役によって強制的に放り込まれたことや、過酷な現実を理解しようと努めました。
まず、パリで独立を支持する知識人らがアルジェリアについてほとんど何もわかっていないことので、『アルジェリアの社会学』を出版しました。多数の先行研究を読み込み、私見を入れて、アルジェリア社会の経済的・社会的構造と、これら構造の植民地支配による変容が書かれています。
ブルデューはアルジェリアの社会学的調査を行う際、はじめから国立統計経済研究所アルジェ支部の研究者やアルジェ大学の学生たちを動員しました。フィールドワークは社会学の基本ですが、共同作業はその後のブルデューの研究スタイルとなりました。

アルジェリアに始まるブルデュー社会学のきっかけについて、ブルデュー本人は

(私を突き動かしているのは)私の名において話しているのではない、自分一人のために話しているのではないという考えです。自分はスポークスマンだ、自分は先触れだ、抑圧されている集合体、語ることができない人々のスポークスマン、先触れだという考えです。

と述べています。
アルジェリア戦争の悲惨な現実と、遠く離れた安全地帯からの知識人の無責任な意見とのギャップが、ブルデューを現実主義的な社会学へ向かわせた・・・
私はそのように解釈しています。

その3へ続く