「どうか僕を幸福にしようとしないで下さい」

図書館に来たのは久方ぶりだった。
本当の事を言ってしまうと、こういう場所の本は好きではない。手続きを行い鞄にしまって、家に持ち帰り触る。責任が生まれてしまう。昔から罪悪感があった。単純に不特定多数でのやり取りも汚らしく感じた。友人同士の貸し借りも得意でなかった。
しかし自分勝手な事に、貸し出しさえしなければその法則は適用されない。その場で読み棚に戻す。美容室の雑誌と同じだ。その場かぎり。適当に捲ったり、捲らなくたって良い。

二冊、選んだ。長居する予定はなく、勿論読み終える事は出来ない。今回はただ、ウイリアム・アイリッシュ「幻の女」の書き出しを読みたかっただけ。
《夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。》

共用スペースへ。カフェのような丸机がいくつも列んでいる。
近くの席では男の子が勉強をしていた。教科書の表紙には白い字で「化学」。昔、教師が「かがく」でなく「ばけがく」と言うのが好きだった事を思い出す。
彼の横に置かれたリュックには、黒い犬のマスコットがついていた。自分で選んだのだろうか、誰かに貰ったのかもしれない。途端に欲しくなった。誰かに貰う犬。


最近は処方された漢方を飲んでいる。何度目だろうと顔が歪んだ。本を読みながら付箋を付けていく。映画は少し控えていた。麺やパンなど小麦のたぐいと、冷たい、脂肪分ばかりのものも。また、睡眠導入剤が要るようになった。部屋の隅でひっそり虫が死んでいたが、何をしてやる事もなくもう三日経っている。

何度も打ち拉がれてはひとりで持ち直した。結局、物心ついた頃からやっている低俗なひとり遊びだ。どこまでも心臓は冷えていける。

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