息をひそめるにはイビキがうるさい

筆を取るというと大仰に聞こえる。この5年間大半の文字を残す際にはキーボードかタッチパネルを押し続けてきた。仕事はおかげさまで忙しく、個人的に文章をしたためる時間も少なくなってきた。したためる、もやはり大仰だ。Twitterだったりスマホのメモ機能に書き残す行為はきっと別の動詞がこれから当てられることになるのだろう。殴り書きのような感じの。
その日、その時感じたことを漠然と残してせいぜい人目に付いても問題ないことはこういう媒体に書いてみる。棘や角を落として、真意や自分の考えは底に沈めるように。
いつからかは定かでないが、自分の意見や考えを表明することが恥ずかしく、億劫になってきた。反抗したり、反対したり、不正義に憤ったり、この根本のようなものは変わらない。ただ、表明の仕方や表明する相手を慎重に選ぶようになった。
責任感は薄いまま、社会性というか世間の流れ方だけを覚えている気がする。例えば定型文でメールを打てるのは社会生活を楽にするが、あの自動化された言い回しにはずっと嫌気が差している。むしろ送り先に失礼ではないかと常々感じている。お世話になっているのかどうかはよくわからないんですけど、ひとまず御機嫌ようと言いたい時があります。
内面のまどろっこしさは変わらないのに、状況だけが変わっていく。きっと一昨年よりも去年よりもより具体的に映画の製作・制作というものに関わるだろうし、それに伴う様々な判断と学習が増えていくだろう。建設的に企画に関わり、あるいは育て、なんなら自分も成長していく、という絵に描いたような充実を得られるかもしれない。人生の折り返しをもう過ぎているんだな、と感じる。
人と深い関わり合いをもつ、ということが残り半生の目標の一つにある。きちんと他人に興味をもつというか。自分の空虚さというか不明瞭な欲望を打ち明けたりできるようにしたり。相手に伝える、コミュニケーションをする、ということは単なる言語の往来ではないということがここ2,3年でようやくつかめるようになってきたので、もう一歩踏み込んだところまで他者と何かしらを共有する楽しみを覚えてみたい。

ささやかな幸せだけが信じられる世相になってきたので、抵抗の仕方もやはり更新しなくてはな、と常々感じています。

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