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論理一辺倒の危うさ【雑考】


論理一辺倒の人がいる。異様にみえるほど論理の一貫性を追求するのだ。

その人が論理に傾倒する理由は論理以外の何かにある。というのも論理の体系からは「論理的に思考しよう」という提案は出てこないからだ。論理は形式だけに関わっている。

論理にこだわるのはなぜだろう?

執拗なまでの論点整理が問題解決に繋がることがある。だから、その人は公共心に溢れているのかもしれない。

あるいは、偏見や常識からの解放、すなわち自由を求めているのかも。または単純にパズルを解くような楽しさを追求しているのかもしれない。知性をひけらかしたいのかもしれないし、情緒的なコミュニケーションが苦手でそうする他ないのかもしれない。厳密でないと不安になる気質なのかも……。

じっさいのところ、今あげたようなものやそれ以外のさまざまな要因が交わっているのだろう。心はそう単純ではない。

論理を用いる人間の方には、ざらざら、じめじめ、どきどき、からからとした感情や動機があるものだ。ただし、そうした感情や動機はしばしば隠される。他人に対しても、自分に対しても。

――論理に照らして率直に議論しているだけさ。

論理の達人や気鋭の論客はそういうかもしれない。けど、本当に? と疑ってしまう瞬間がある。いじわるしたいって思いはないの? そこまで率直に言って欲しいところ。

あえて言うなら、率直な友人のよくないところは、要するに彼が率直ではないということだ。率直だと言いながら、実は人に隠していることがある。他人のいやがることをわざと言うという、人には言えぬ陰気な楽しみがすなわちそれである。単に人を助けたいのではない。ひそかに他人を傷つけたいという願望を持っているのだ。

G・K・チェスタトン著 安西徹雄訳『正統とは何か』春秋社 1973年 117頁


私は近々、論理一辺倒の宇宙論・惑星論を記事にするつもりだ。私としてはそうした議論に大きなおもしろみを感じているが、かといって詩人の心を失わないようにしたいもの。

あらゆるものを受け入れることは適度の運動となる。あらゆるものを理解しようとすることは過度の緊張となる。詩人の望みはただ高揚と拡大である。世界の中にのびのびと身を伸ばすことだけだ。詩人はただ天空の中に頭を入れようとする。ところが論理家は自分の頭の中に天空を入れようとする。張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない。

G・K・チェスタトン著 安西徹雄訳 『正統とは何か』春秋社 1973年 21頁


感情や詩心を無視した論証は、それ自体が薄っぺらさを纏うのみならず、ときに説明対象の値打ちさえ損なってしまうのだ。

彼はあらゆることを理解している。だが、彼の説明を聞いていると、あらゆることが理解する値うちもないように思えてくる。彼の宇宙は、一つ一つの鋲や歯車の隅々まで、まこと完璧に完成しているかもしれぬ。それにもかかわらず彼の宇宙は、われわれの宇宙よりはるかにちっぽけなのである。

G・K・チェスタトン著 安西徹雄訳 『正統とは何か』春秋社 1973年 30頁


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