ゆめゆめ

その時の俺は珍しく怒っていた。ある時期を境に怒ることを含め強い感情を抱くこと全般が膨大な体力を消耗することに気がついて以来俺にとっての生きることは現状の肉体や資源を摩耗させながら水準を維持し続ける持久走に変容したような記憶がある。だから俺が情緒を顕にすることはそこそこ稀で、現に激情を抱えることに脳が慣れていないのだろう、神経を締め上げるようなしんどさが脳を刺して回る。俺は怒りの衝動をどうにか破壊衝動に変換して体外へ逃そうとたまたま手についた食卓の上のつまようじのケースをぶちまけていて、周囲の情報がかき消されて遠ざかる中で奥歯がつまようじを噛み砕く感触だけが鋭利だった。ほとんど悲鳴のような息を吐いて目が覚めた。午前10時。そういえば俺の記憶する限り今まで食卓につまようじが置かれたことは一度も無かった。

1日の始まりは目を開いて薄暗い自室、意識に纏わり付く塵や床の髪の毛、繊維のざらつき、汗、皮膚の脂、鼻腔を通る淀んだ空気、全身から発せられるごく微細な痛み、痒み、ヒリつき、疲労等々の膨大な感覚の集積、それらに厳重に包まれて布団の中に収まる自分を認識するところから始まる。では無いように思う。睡眠によって断絶される意識の連続性で時を区切るのなら1日の始まりは目覚める直前に見ていた夢だ。

俺は夢を見ることが好きで、夢の中に居る間は多くの場合それを現実だと認識できるところが好きだ。夢の中の俺は現実と同じように、寧ろ肉体的物理的キャパシティの制約が無い分現実以上に豊かに情緒を巡らせることができる。どんなひどい夢でも覚めてしまえばサスペンス/ホラー映画と大差無くてどんな努力も失敗も次回には反映されない。俺は努力の成果より失敗の方が多い人生を送っているので後者の方が有り難く、俺が現実に抱いてる理想って夢だったらしい、ということを目覚めた瞬間の階段を踏み外す感触で理解する。

要領が悪いってこういうことなんだろうか。大人になれば理解できると思っていた幸福への向かい方が不透明なまま、自分の意思で操作できないままランダムに与えられ続ける幸福によって決して不幸だけではなかった過去を引きずりながら、曖昧な未来へ進み続けることの意義について考えたら死んでしまうので極力一歩先までしか視界に入れない。これは生きているというよりかは延命なのだという嫌な感覚だけが脳の奥にある。それを頸椎から引きずり出す瞬間を空想して斬首の夢を見る。曖昧で不安定で偶然に揃った環境条件のおかげでなんとか瓦解せずに保存され続けている俺は崩れたく無いので今日も何もしないでいいのかな。いいんじゃない。開き直るのが前より上手くなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?