ふわふわさくぶん

なんでこんなもの書いちゃうんだろうね。午前5時の幼稚な感傷でぐちゃぐちゃの脳から産まれる文章は人に見せるべきでない祈りと懺悔だ。俺の喉の奥にはいつもごめんねが引っかかっていてそれが酔った拍子に出てしまう。ごめんねと、ほんとうにごめんねとありがとうとしあわせになってくれよがとめどなく溢れてそのうち涙腺までおかしくなってああだめだな泣くのはうざったいから、ごめんね、またごめんねを言っちゃった。常になんとなく涙腺がジリジリと痛くて泣きそうなのに酩酊しないとうまく涙を出せない。涙は出すべきでは無くて、俺は泣きすぎだから、俺の涙はとっくの昔に価値を失ってて俺が無言で涙を流す横で(またか)の顔をした家族が無言で通り過ぎてゆく。人に慰められたり好かれる空想ばかりしているのに実際に慰められて好かれるのはしんどいのに気がついたのはここ数年のような気がする。生きた人間に触るのは苦手で眠っている人間のお腹を揉むのが一番安心する。俺の世界は死にたい人間ばかりでいなくならないで欲しいけど俺の中にも希死念慮はあって俺はみんなの人生に責任を持てなくてみんなを救える訳でもなくて死なないでを言う権利が無いので「君がいなくなったら本当に寂しくてしんどくなるな」を言って縋るような目つきで相手を眺めることしかできない。相手は何か悟ったような振り切れたような静かで穏やかな笑みを浮かべていてそのままふっと消えてしまいそうだった。俺は希死念慮というものを否定できなくて希死念慮のおかげで生きながらえている面もあって死みたいな逃げ場があるのはすごく楽だ。みんな優しいから死んだ人間をあんまり悪く言うこともないし死んだ人間を記憶し続けることも無いと思うし、無かったことになれるのはすごく贅沢なことだ。死にたい日は心が楽でもうずっと何をやってもしんどいけど死ぬ計画だけは子供みたいに無邪気にワクワクできる。真っ黒で何も見えなかった未来が初めて眩しく見える。ようやく自分を少し許せるようになって、鏡を覗いたら穏やかな笑みを浮かべた俺がいた。俺はどんな死に方をするのかわからないけど多分故人とおんなじ死に方をする気がして、でもやっぱり真似をするのは嫌がられそうだから首吊りかな、首絞めるの好きだし。脳みそがつめたく空っぽになって呼吸をしなくてもよくて心音がきこえなくなる。静かになる。首を絞めるのは好きだ。昔から好きだ。脳を止めてくれるものは全部好きだ。

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去年のおしまいメンヘラだった俺もおんなじこと言ってるね。

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