自動筆記

俺は死んだはずなのに学校に登校していた。午前10時の駅のホームのベンチで乗る気が起こらなかった快速やその向こうの2番線ホームの各駅停車を眺めているばかりでバス通学はしたことが無かったはずで、奇妙な夢だなと思っている。俺は仲良くしてくれる同級生同士の塊の中に迎え入れられていて、俺は集団で帰り道を歩いている時に声をうまく聞き取れる距離を保てなくて会話から外れて行くのを恐れている。言葉を慎重ぎみに選んでアウトラインを探っている。そういった感覚がすごく久しぶりに感じるのは俺が既に死んでいるからで、懐かしさの程度から体感3〜4年前に死んだはずだった。死んだつもりだったので周囲の人間からの評価とかもっとシンプルに信頼とかを求め続けることを諦めてどうでもいいやと切り捨てて割り切れたと長いこと思っていたし、根源的な感性の相違で引かれ続けた溝を埋めようと頑張ることが無意味なのは経験則として実際にそうなことも覚えていて、またこういう感じの忖度ができる人間に戻れると思ってなかったから夢の中に居るのと同じくらい現実感が無い。俺は死んで以来は鬱病として死者として丁重に且つ別次元の存在として無関心に扱われてきたので幽霊扱いでない触れられ方はざわざわと皮膚が粟立つ感じがするし、寒い場所で暖かい手で触られたみたいだなとも思う。俺の周りには鬱病しかいないのに鬱病じゃ無い人は人生で一度も鬱病を見たことがないまま生きているのは生存者バイアスなのかなとずっと不思議に思っている。このまま鬱病とかの存在を知らないで平穏に生きてほしいとも思う。解決と救いが存在しない諦めて慣れていくしか無いので鈍くなっていく感覚とか目の前が真っ暗なことを誤魔化しきれなくなった絶望みたいな重い感情に一度陥った人間が完全に元に戻れることは二度と無いと思っていて、一度生じた視点と価値観は上塗りと改竄を繰り返しても深層に記憶に依存して残り続けると思っていて、いつかフラッシュバックを起こすまで地雷原を歩き続けるだけだと思っている。触れなくても問題なく生きていける側面を好奇心だけで覗き込もうとしてきた人を心底煩わしいと苛立った記憶が何度かある。責任感で知ろうとする人間はもっと苛立たしい。絶対に超えてはいけないラインのどこかに健常者に鬱病を覗かせることがある。健常者を見ると自分が鬱病なことを強く自覚させられるので嫌いだなと思っている。でも健常者は一方的に眺める分には嫌いでは無いので形を変えた自己嫌悪の派生なのかなと思う。死んだら一番楽なことは事実として今は死にたいと死にたく無いの中間に立っている。生きたいと死にたく無いはやっぱり違うよな。かなり別物だな。学校は楽しいけど死ぬほど疲れるので帰宅後毎回2~3時間程度気絶してる。頭痛が前よりも増えて前より焦るようになった。薬も減るのが早い。でも今度はうまくいくといいなと思ってうまくいくならその過程で決定的にダメージを負って寿命が縮まってもいいなと思う。卒業した瞬間に死ぬのが一番いいなと思う。ネガティブすぎる。桜吹雪久しぶりに見た。

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