癖的サムシングの話
俺は眠る時にいつも頭まで布団を被らないと寝れない癖があって、夏でも頭にだけはタオルかけて寝てます。これには理由があるんですよね。これは俺の幼少期の話です。
俺のばあちゃんは第二次世界大戦の経験者で、子供の頃は集団疎開と言って空襲の多い東京から地方へ一時的に他の子供たちと集団で避難をしていたそうです。父が言うには当時の疎開した子供たちは朝早くから夜遅くまで農作業を手伝わされ、食糧難もあったため餓死した子供もいたとか。でも、ばあちゃんの子供の頃の写真がいくつか残ってるんですけど、疎開先での集合写真があって、その写真を見ると全員確かにガリガリに痩せててるのにばあちゃんだけむしろちょっと太ってるくらいだったんですよね。ばあちゃんにそれについて尋ねてみたらばあちゃんは「あんころのオレは、食えるモンはなんでも食いよった」って言ってました。
当時の俺はこのセリフがイマイチピンと来なかったんですけど、この数年後にばあちゃんがボケちゃったんですよね。まあ歳も歳だし家族も覚悟してました。じいちゃんはボケてなかったんですけど介護が必要な状態で、あの頃の母はじいちゃんの介護とばあちゃんの監視でいっつもピリピリしてました。俺が小2くらいの頃かな。ばあちゃんはボケてしまってから戦時中の記憶のせいか家中の物をなんでも食べちゃうようになって、冷蔵庫の野菜から生米から花瓶の花までほんとになんでも食べちゃうんですよ。母は常に戸棚と冷蔵庫に鍵をかけてました。スーパーとか、絶対連れていけませんでした。一回畳を食べちゃったこともあって、すぐ吐かせたんですけど。だから母はばあちゃんを絶対に一人にできなくてずっと家にいなきゃいけなかったからあの頃の家庭内は常にギスギスしてました。
そんな日が2年近く続いた頃にじいちゃんがぽっくり死んじゃったんですね。あんまりにも突然だったから葬儀屋さんもすぐに受け入れてもらえなくて、季節も冬場だったしじいちゃんの遺体は2日ほど家に置いておくことになったんです。暖房が切られた冷たい部屋で白装束を着たじいちゃんが寝てて、家族はあの時悲しいと言うよりはホッとしていたと思います。おそらく母は一番ホッとしているくせに妙に悲しむような演技をするので俺はなんとなく居心地が悪かった。
その日の夜でした。俺は深夜にトイレに行こうとしてばあちゃんが廊下を歩いてるのを見かけたました。連れ戻そうと思ったんですけど、ばあちゃんはじいちゃんの部屋へ向かったんですよ。最後に挨拶したいのかなって思いました。じいちゃんが死んだことを俺も含めてやんわりと喜んでいる節さえある家族の中でばあちゃんだけは純粋にじいちゃんの死を悼んでるんだなと、俺は声をかけるのをやめて、ばあちゃんを見守ることにしました。
眠るじいちゃんの傍に座り込んだばあちゃんはじいちゃんの顔にかかった布を除けました。安らかな顔のじいちゃん。その時、ばあちゃんが何をしたのかは影になってよく見えなかったのですが、ばあちゃんがじいちゃんの鼻から何かズルッと棒のような物を引き抜いたんです。今思えば錐だったのかな、ばあちゃんはじいちゃんの鼻から錐を抜いたら、今度はストローのようなものをじいちゃんの鼻に刺して、あの音は絶対に絶対に認めたくなかったけど、明らかに何かを吸ってる音でした。ばあちゃんはじいちゃんの脳を吸ってました。
ああ、ばあちゃんの言ってた食えるものってのはこういうことだったのかと。ばあちゃんはしばらく吸ったらまた錐を鼻から差し込んで脳をぐちゃぐちゃとかき混ぜ、ストローで吸うを繰り返してました。俺は声も上げられず、その場から逃げ去ることもできないまま硬直してました。しばらく経って、足が動くようになったので俺は転がるように布団に逃げ込み、そのまま朝まで眠れませんでした。
後で知ったんですけど、脳って栄養のある部位なんですよね。古代エジプトではミイラを作るときになるべく外傷を作らないように鼻から脳を掻き出したそうです。もちろん、家族には言ってません。葬儀は滞りなく行われ、俺はじいちゃんの頭が軽くなっていないか確かめることもできないままじいちゃんは骨になりました。あれ以来俺はずっと頭まで布団を被らないと安心できなくなっちゃったんですよね、寝ている間にばあちゃんに脳を吸われるんじゃないかって。今ではもうばあちゃんも死んで俺は一人暮らしをしていますが、多分一生この癖は治らないと思います。
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