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わたしとは、何なのか。ー大倉書房代表、最後のつぶやきー

わたしとは、何なのか。
大倉書房の活動を振り返るにあたって、わたしはその問いを前に立ち止まらなければなりません。「わたし」とは何か。いや、そもそも「わたし」など存在するのかどうか。

わたしなどというものが、一体、あるものか、どうか。
今ここで文字を打ち込んでいるという意味で、私という主体は確かに存在しています。けれど、明日になればきっと、今日のわたしはもういないのです。いえ、最早或る一瞬の後には、わたしは既に別のわたしに変容しています。一刹那を越えて維持できるわたしなど、きっとどこにもありはしません。命が続くのと同等に保たれ続けるわたしなどというものは幻想です。

わたしは、自分を、わたし自身を定義することが苦手でした。正しく言い直すならば、今でも苦手です。わたしには、わたしというものが一番よくわかりません。

書き手であるところの主体の私は、「わたし」と「私」を使い分けます。「わたし」はぼんやりと緩く形を結んだ自己の本質的なもの。「私」は今この瞬間に存在し、そして明日にも存在するであろうと思われる主体としての私。わたしが普段使うのは、「私」の方です。私は今存在し、そしておそらく明日も存在し、生の営みを担う者です。しかし、ここで問題にしたいのは、「わたし」。

この曖昧な、輪郭を結ぶことさえ不確かなこの存在を、どう理解すればいいのでしょうか。
私は、究極的にはおそらくわたしに成りたいのです。だから私は、私とわたしの間にある断絶を知るためにものを書き、嘆き、喜び、そしてものを描くのでしょう。それが私の妄執です。自己の本質を体現すること、これがいずれ私を滅ぼす私の妄執。私を修羅に変える因縁です。

ところで、世界というものは無数にあります。私は、この「世界」という言葉も苦手です。何を指しているのか、使う人によって無数の意味を孕んでしまうからです。
私が「世界」と使う時、それは地球の上に存在する一体感を指す場合と、己独りの宇宙を構築する世界観を指している場合があります。多くは後者の意味で使うことが多いのですが、この意味での「世界」という言葉は、他者との隔絶を前提としています。

ひとは、或る時。己の見ている世界と他者の見ている世界が違うことを知ります。他者と関わることは、己の抱える世界が、どだい共有不可能であることを知る行為でもあります。接続を試み、その度にその世界が抱く最も柔らかいものが傷ついていくような、そんな自傷行為です。しかし、それでも、共有できることを夢に見て手を伸ばすのです。大抵の場合、隔たりを突き付けられて終わりなのですが、時折、指先の触れる瞬間があります。その瞬間、たったの一瞬間、私は言葉に出来ない何かを感じます。それは、わたしにまで到達し、私達は泣きながら笑うのです。

小説とは、端的に自己の引き受ける世界を開示するものでもあります。作者とテクストの間の溝は、世界の断絶ではありません。もしもそこに溝があるというのなら、それは作者が意図的に生み出したものであると思います。あれは自然に生まれるものではないでしょうから。もしくは、そこに溝を読み込む読者の存在が影響しているのでしょう。書き手と読み手。小説は二つの主体を結ぶ媒介でもあります。文字を介して、世界を伝える尊い対話。少し辛辣なことを言えば、真に対話に応じる読者がいるならば成立する、ということですが。つまり、そもそも対話者に巡り会えること自体が最早奇跡だということです。真の対話に応じるのなら、読み手にも相応の覚悟がいります。文字通り、世界と世界のぶつかり合いです。下手をすれば、世界が崩壊する危険さえあります。

私は、わたしの世界を何度も何度も崩壊させました。何度も世界を作り直し、組み直し、そしてわたしの存在を問い続けました。乱雑に言ってしまうと、生きるとか死ぬとかどうでもよくて、ただありのままのわたしがどこにいるのか分からなくて、それがどうしようもなく腹立たしかった。私は常に、怒っていました。理解されない事に対する苛立ちが常に耳の奥で鳴り響いていました。

私は、わたしの世界をまるごと容認してくれる人に出会いたかったのだと思います。だから妄執なんです。そんなことは絶対にありえないことですから。むしろ、容認してくれたと思った時こそ、落とし穴の入り口です。それは私の勘違いで、のちに残されるものは虚無です。ほんとうに、虚しさしか残りません。哀しいとか、怒りとか、そんなものは何もなく、ただただ胸の奥が空っぽになります。

わたしの世界を容認してくれる人なんて、どこにいるのでしょう。おそらく、いないのでしょうね。
気遣いで受け入れる姿勢を示すことと、容認することは違います。受け入れる姿勢をわざわざ示すことは、その世界の根本を否定するのと同じことです。いや、むしろ否定されるよりも、もっとえげつないものがあります。そこには、言葉を選ばず表現するなら、マイノリティーへの配慮と同等のものを感じます。乗り越えられない境界を引かれているみたいです。誰かを気遣うことはとても難しいですね。私自身、自分の申し出がかえって人を傷付けたのではないかと反省することが多々あります。誰かの手助けをしようとすること、その偽善や欺瞞を感じながら、私は生きていく他ないのでしょうか。

「ふーん」と言われた時、私はとても嬉しかったのです。「そうなんですね」と、あっさり返して来たその人をまじまじと見つめ返してしまいました。こんなに簡単なことだったのかと、拍子抜けして、今思い出しても笑ってしまいます。ここまであんなに泣きそうになりながら書ていたのに、口角が上がって仕方ありません。きっと、その人はこんな世界の話をしても、「へぇー、そうなんですね」とコーヒー片手に言うのでしょう。

だから私は、わたしの一部を切り捨てることができたのです。それは、かつての私が己に望んだ、わたしの世界の中核でした。
私は常に、己に殉教(殉死、殉職)できるかということを問い続けてきました。私は自分の手で、もしくは時流の中で、己の腹に短刀を突き付けなければならない時が来ることを覚悟しようとしていたのかもしれません。私はずっと自分自身の信仰と、そしてその信仰に懐疑の目を向けてしまう己の揺らぎと、それでも信じ抜く覚悟を胸に秘めていました。喧嘩を売るようで申し訳ないのですが、精神の上で生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている私が、同級生と話の通じる訳がありません。
私はあの頃本気で、文学に殉じて死ぬつもりだったのですから。これがわたしのかつての核です。

大倉書房として活動していた時の私は、今の私ではありませんでした。同じわたしでも、私達はまるで別人です。けれど、根底ではつながっています。わたしというものは、幾人もの私を抱えながら生き抜いていくものなのかもしれません。
私はこれまで、わたしの人格を引き裂きながら生きて来たと思っていました。現に、それは事実でもあります。しかし、それは引き裂くという残虐な行為でもなかったのではないかと思うのです。生きるために、わたしは私を生み出しながら、模索していた、とは考えられないでしょうか。

倉持龍は、わたしがわたしになるために、そしてわたしを護るために生み出された、かつての私の姿です。
私は、この名を捨てるつもりはありません。この名は、わたしの、ひいては、わたしの先祖の因縁を引き受ける名でもあります。龍という名には、それだけの意味があります。だから私はきっと本名と共に、この名を、たとえその主体が変わろうとも、大切にしていこうと思います。そしてもちろん、大倉書房という名も。大倉の名は、これまたわたしの因果です。

私は、この大倉書房の活動を通じて、一つの縁起を描き出したのだと思います。その因縁に巻き込んでしまった大倉書房のメンバーや友人、お世話になった先生方、印刷所や箔押所の皆さん、そしてクラウドファンディングでご支援くださった皆さん、それから文フリの会場で大倉書房に足をお運びくださった皆さん、それらすべての方々に深謝申し上げます。
わたしは、皆さんのおかげで妄執の炎に焼かれずに済みました。私は魔神にならなくても、生きていけます。

紫苑は、ものをおぼえさせる草、いつまでもわすれさせぬ草。
わたしは、自らの足跡に、紫苑が咲き乱れているのを眺めています。紫苑は何度も生まれ変わり、わたしのなかに種子を落としていくのです。わたしはその種子がいずれ実を結ぶ日を待ち望みながら、華厳の滝に向かって遠吠えしましょう。振り仰いだ空の先に満月が冴え冴えと照っています。友よ、どうかこの詩を後世に残してはくれまいか。一匹の憐れな虎が、愚かにもこの世に未練を残した証として。

大倉書房代表
倉持龍

大倉書房の活動の話をせずに終わってしまいました(笑)
でもまあ、もう語ることは何もありません。
大倉書房は水の中に揺蕩う遠い昔の記憶のようで、私は自分の前世を眺めているような気さえするのです。ただ穏やかに、記憶は埃を被ってゆきます。

わたしは今がらんどうです。このこめかみに、果たして神は宿るのでしょうか。


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