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まずは書く

子供の頃から本を読むのが好きだ。
だからなのか、言葉や文章を書くことに何の抵抗もなかった。小学校低学年の頃から、息をするように書けた。
長じても、国語の成績はいつもトップクラスに良かったし、小論文の課題は対策なんかしなくたってなんでもかけたし、難しいと思ったこともなかった。

でも、例えば「読書感想文」、「遠足の感想文」……何らかの「感想」を書くのは苦手だった。
一行目しか浮かばない。「面白かったです」「楽しかったです」。終わり。他に何を書けって?
読書が好きだから感想文も得意だろう、国語の成績が秀でているからお手の物だろう、なんで賞にかすりもしないんだろうね?
周りの大人はいつもそう言い、私はうんざりしたものだった。

感じたことを言葉にするのが嫌いだった。
いちいち言葉にする必要があるだろうか、感じたことをわかりやすく伝えようと言葉にした途端、それは再構築されて形を変じてしまう気がした。
どんな言葉も当てはまらないような気がする感じ方だってあったし、無理に何かに当てはめようとするのが嫌だった。

まあ、今といえば「よかった!」という気持ちを伝えたくて、具体的にコンサートならこの曲が!とか、舞台ならこの女優さんが!とか、ゲームや本ならここの展開が!とかなんとか挙げ連ねて上手く逃げている。
大人になったからこその、この姑息!

高校時代は新聞部に在籍していたので、取材をして記事を書いたり、コラムを書いたりしていた。
そういうものは「感想」ではなくて、事実を曲げずに誤解を与えず書けばよく(修飾語は使わないように、とかそういう面倒な技術みたいなのは必要だったが)、コラムは分析と考えをまとめればよく、むしろ楽しかった。

大学に入っても国文学科、レポートに論文にとただひたすら文章を書いたものだが、課題に対して何をどう表現してどうまとめるかで苦しんでも、文章を書くということ自体にはやっぱり苦労しなかった。

社会人になってもそうで、文章系の仕事の添削を頼まれるほどだったし、代筆もした。プログラマだったとはいえね、(会社の)ブログの更新とかメルマガがどうのとかあったし。

でもどんどん仕事が忙しくなっていくにつれて、自分の考えを文章にする時間も気力もなくなっていった。
休職したころにはからっきしダメになっていた。感想だけでなく、考えをまとめることすら億劫でやめてしまった。

数か月休んで数年復帰して、今から2年半?もう3年?ぐらい前に結局仕事は辞めた。時間が自由になったはずなのに、相変わらず何に対しても考えがまとまらなかった。
まとめたくなかったのかもしれない。
文章を書くということって、こんなにエネルギーが必要だったのか、と思った。そりゃあ苦手な人は嫌だわ。しんどいもん。

しかもこのコロナ禍が始まってしまって、唯一やっていたSNSのTwitterも私にはしんどくなってしまった。
あっちもこっちも議論、論議、うんぬんかんぬん。何が正しくて正しくないのかもわからないし、人の意見を読むのも聞くのも、自分の考えを言うのもなにも嫌になってしまった。
見たら何か言いたくなるし、かといって言うのは嫌だというジレンマ。
だから見ないことにした。

意外と慣れてしまえばむしろ楽で、今や結構自己完結できるようになってしまった。
あんまり自己顕示欲はないし、認めてほしい人なんてそんなに数多くないし、考えをまとめてどこかに書いておくという労力、公開する危険性、そういったものと天秤にかける……までもなく、そんなことは必要ない、と切って捨てた。

だから気持ち的には捨てたままでもいいのかなと思っているところもなくはないけど、そういう精神状態だと、Twitterに何か思い出話をしたりするだけで翌日には「余計なこと言っちゃったなー」と思うし、何かちょっと言って発散したいなと思っても、そのうち自己完結できるからもういいかって思ってしまう。

本当にそれでいいのか?という気持ちと、できればそろそろ社会復帰もしたいし、そうなると何かちゃんとひとつ、毎日少しエネルギー使うことをやった方がいいかな、と思ってnoteに登録してみた。
何も考えずにTwitterアカウントと紐づけちゃったから、分ければよかったかなとも思いつつも、まあちょっとやってみてダメだったらまた考えればいいなという気楽な感じで。

気楽でこれだけ長く書ければ書きすぎだよな。
思いつくままで構成もなってないし、何が言いたかったのかも不明瞭。
でも、とりあえず書いたから今日は90点!だってnoteに登録したのは一昨日だから!

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