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「異例」と騒ぐマスメディアは消え失せろ

私には、前まで特にそうではなかったが、最近嫌いになった言葉がある。

「異例」だ。

きっかけを作ったのはあの忌まわしい、「京都アニメーション放火殺人事件」だ。

まもなく三ヶ月が経とうとしているが、あまりに凄惨な現場とは裏腹に喪われた日本屈指のアニメーター達が戻ってくることはない。

何を隠そう、私も京都アニメーションのファンの一人である。

だから、このような凄惨な事件にも、何一つ対応を変えることがなかったメディアが嫌いだ。

彼らは実名公表を望んだ遺族ならまだしも、実名公表を拒否し、静かな祈りと暮らしを選んだ遺族の言葉を無視した。
何一つ変わる事なく、自らの権威とエゴの為にカメラを回し続けた。

その際に使った言葉が「異例」だった。

来る日も来る日も、まるで駄々をこねる子供のように、凄惨な状況に対応することなく、「異例の実名非公表」などとうたいつづけた。

まるで状況に適応した他者を辱しめるように。

異例で何が悪い?異例異例だと言って、その本質を捉えようとしない「マスメディア」という存在に、この国の情報を先取りして垂れ流す権力など与えてはならない。

私は絶対に彼らを許さない。凄惨な現場を我先にと撮影しようとしたバカも、献花台を脚立で取り囲んで「国民のためだ!」などと豪語する傲慢さも、自分達は情報を公にする義務があるなどと勘違いして勝手わがままに実名公表に踏み切った悪魔のような立ち居振舞いも、絶対に許しはしない。

あの事件を期に私はマスメディアという存在を信じることをやめた。

もちろん日々の情報源として、彼らを頼らざるを得ないことはあるだろう。リビングに行けばテレビが点いているし、朝には当たり前のように新聞が届く。

未だに「テレビ・新聞」という存在から人々が完全に脱却できる日は遠い。

しかし誓おう。私個人として、メディアに救いを求めたり、感謝を述べたり、崇拝することは二度と無い。

もし街角で彼らマスゴミにインタビューを求められたならば、「馬鹿じゃねーの」と一蹴するつもりだ。彼らにはそんな価値はとっくに消え失せた。

さて、本題に戻るが現代は「異例を受け入れた者」が勝つ時代だ。

キャッシュレス、5G、情報のバリアフリー化など、時代の変化は目まぐるしい。

それを報道こそするものの、本心では異例と罵って受け入れようとしないマスゴミは

「さっさと消え失せる事」こそが求められた責務なのだと、知るがいい。

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