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シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムの夏 #同じテーマで小説を書こう

 シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムは夏を知らなかった。
 彼女は数多ある料理の中でも、特に味の癖の強い方であった。その上、とても熱い。そんな彼女を、夏にわざわざ食べる人などいなかった。なので彼女は夏ではなく、冬によく食べられていた。よく、と言っても、そもそも癖のある味のせいで、調理されることもほとんどなかった。彼女のことを食べたいと欲する人も少なかった。
 
 そんな彼女に、夏を見る機会は唐突にやってきた。
 Aは一人、さめざめと泣いていた。Aの側には誰もいなかった。
 握っているハンカチは乾いているところがなく、Aの涙をほとんど吸ってくれない。Aは手の甲で涙をすくうが、すくってもすくっても、Aの瞳は枯れなかった。涙はAの悲しみを少しだけ連れて流れていくものの、こんこんと湧く悲しみの方がずっと多いせいで、Aは時間の経過とともに苦しくなっていくばかりであった。
 泣き続けることは、Aにとって少しも良いことではなかった。A自身もそのことに気付いていた。このままでは何も変わらない。Aは自身の感情が崩れる前に、何か行動を起こさなくてはならなかった。Aは泣きながらも必死に、その方法を考え続けた。考えることすらどうでもよくなるような、強烈な感覚が欲しかった。
 ずっとこのまま、何も思い浮かばないような気がした。諦めかけながら涙を拭っていると、ふと閃いた。
 シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムを作ろう、と。

 Aは滲んだ視界の中で、冷蔵庫の中身を確認した。鯖、卵、青ねぎ、玉ねぎ、ラー油にニンニク。味噌、麺つゆ。キムチもあった。何とかなりそうだ。
 この料理の臭いは一人じゃ抱えきれない。部屋に染みついても困る。Aは窓を開けた。網戸の隙間から虫の鳴く声とともに、生暖かくて重たい空気が入ってきて、Aの体を包んだ。Aの涙が一瞬止まった。Aの視界が少しだけはっきりとした。
 
 Aはキッチンで食材を切り始めた。シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムは少しずつ感覚を得た。まな板の上で。ぼんやりとした彼女の視界の中で、Aはまだ泣き続けていた。彼女は不思議に思った。過去に、泣きながら彼女を作る人はいなかった。
 Aは黙々と作り続ける。Aが調理を進めていけばいくほど、彼女はその臭いを強めていった。Aは泣いていることを次第に忘れていった。息をすることが徐々に苦しくなってきた。Aのキッチンは次第に彼女の臭いで満たされていった。換気扇は懸命に動いていたが、その程度の力ではどうしようもない。自身の思いつきで始めた料理であるにも関わらず、どうしたらこの苦しみから逃げられるのだろうと、Aは眉をひそめながら調理を続けた。
「何か、臭くね?」
 隣室の会話が、開けた窓から微かに聞こえた。

 彼女はぐつぐつと煮えたぎる出汁の中で、より感覚を得始めていた。
「よし」
 というAの声がした後、彼女の足元をチクチクと刺す炎が消えた。彼女は白くて底の深い器に移された。彼女の一部が、少しだけ、キッチンに飛び散った。あまり気にならなかった。

 Aはリビングに器を運んだ。彼女の臭いはやはり強烈で、Aは自身の服にじわじわとその臭いが染みついていくのが分かった。Aは彼女を嫌っているわけではなかった。どちらかと言えば、好きであった。思考が追いつかないほど、感覚を支配してくれる彼女が好きであった。一方、彼女は困惑していた。夏に作られることなんて決してないと思っていたし、事実、今まで一度もなかった。彼女は冷房の人工的な冷たさにいまいち慣れなかった。
 Aはレンゲで彼女を食べていた。涙はもう止まっていた。彼女はとても熱い。Aは涙の代わりに大きな汗の粒を流していた。
 レンゲから漂う臭いはあまりにも強く、Aは鼻に皺を寄せながら彼女をすすり続けた。食べる度、臭いは段々と強くなっていく。Aは鼻での呼吸を止めたが、それでも臭いは消えてくれない。どうにも我慢ならなくなって、Aは器とレンゲを抱えて、ベランダに飛び出した。
 そのとき、彼女は夏を知った。

 梅雨が明けた夜の空には、雲がなかった。湿気の高い空気を乗り越えて、きらきらと輝く星が幾つも彼女の目に入った。暑かった。耐えられないほどであった。夏がこんなにも息苦しい季節だとは知らなかった。それでも彼女は幸福であった。Aが気を紛らわせようと彼女を頼ってくれたこと、そして、Aの涙を止めていることが幸福であった。
 
 Aは器を左手で持ちながら、右手のレンゲで彼女をすくい続けた。何も動かない夜であった。家も外灯も星も、点滅することなくじっと光り続ける夜であった。Aはその景色を眺めながら、彼女をすくい続けた。彼女は新しい夏の空気に包まれながら、Aが自身を食べていくのに静かに身を委ねていた。

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