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自分の好きなものと誰かの好きなもの

こんにちは。

聴く音楽、読む本、飲むお酒。
人それぞれ程度の差はあれど、こだわりをお持ちの方が多いと存じます。

「この歌手の音楽ばかり聴いてる」
「この作家さんの本はあんまり読んだことないや、何となく」
「男は黙って〇〇ビール」
などなど。

僕はそんなこだわりが人一倍強い方だと自覚しています。
好きなものばかりを繰り返し聴いたり、読んだり、味わったり。
自分の好みをしっかりと理解できている点は良いのですが、その一方で、好きではないものにはほとんど触れず、自分の小さな世界に閉じこもってしまうという欠点も。

けれど、そんな僕も最近変わってきたよ、というお話をしてみたいと思います。

オーケストラ部にいるのにメタルばっかり聴いていた

僕のこだわりの強さと、自分の好きなものだけを追っていたことを示すための一番のエピソードと言えば、真っ先に音楽に関するものが頭に浮かびます。
僕は高校生の頃にオーケストラ部というちょっと珍しい部活に所属していました。部活で交響曲を演奏する一方、家に帰れば好きなメタルばかりを聴いていました。
勿論(?)、周囲にはメタル好きの人などおらず、メタルのCDを借りたり、雑誌を買ったりしながら、僕は一人で変な世界観を築いていました。
それはそれで良かったし、今でもメタルは大好きですが、あの時期は触れたことのないジャンルや友達の好きな音楽に対して、全く興味を示しませんでした。
もし、友達に「好きな音楽教えてよー」と一度でも尋ねていれば、僕の考え方を変えてくれて、今もそれを聴き続けているような素晴らしい音楽に出会えていたかもしれません。そう思うと、勿体ないことをしたな、と遅すぎる後悔で胸がいっぱいになります。

ちょっと付け加えます。
ここまで書いてきて気付いたんですが、僕が「高校生の頃」と言っても、「おめえ今何歳だよ、何年前の話だよ、知らねえよ」ですよね。
僕は今26歳です。高校にいたのは10年くらい前のことです。

時の流れというものは...

話を進めます。

村上春樹さんの本はなんとなく読まずにいた

本好きな僕は、大学では文芸部に所属しました
(と言っても、学部1年生と4年生の計2年間だけですが)。

他の部員の方も本好きばかりで、それぞれ様々な作家さんの小説を読んでいましたが、みなさん個性が強すぎたのか、誰かの好きな本を読んでみるといった交流はありませんでした。それぞれが独自の世界を持っているような。

部内で仲良くなった友達は、「長編は2周した」と豪語するほどの村上春樹さんファンでした。
「そんなに面白いのか...」と衝撃を受けたことははっきりと憶えているのですが、「じゃあちょっと読んでみようかな」とは何故か思えませんでした。

こだわりが強かったため自分の好きな小説を優先したことと、村上龍さんの大ファンだった(今もそうですが)ことが関係しているのかも知れません。笑 つまり、自分の好きを優先していました。

好きではなかったものに触れてみると...

けれど、そんな僕も段々と変わってきました、自分でも不思議ですが。

きっかけは思い出せませんが、大学4年生のある日、ふと村上春樹さんの小説「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を買い、読み進めてみました。
すると、何ということでしょう、ハマっちゃったんです。恥ずかしいくらいに。
こんなに面白かったのか、と遅すぎる発見をし、それから村上春樹さんの小説を買い漁りました。

音楽に関しても、「洋楽しか聴かない! 邦楽はピーー(自主規制)だ!!」と偏見に近いものを抱いていたんですが、ここ数年は邦楽洋楽関係なく、とにかく良いと感じたアーティストさんの曲を聴くようになりました。
今となっては、邦楽と洋楽という区別をしていた自身には「バカだなぁ~」と呆れる気持ちでいっぱいです。笑

好きではない=嫌い とは限らない

さて、ここまで簡単に述べてきたように、僕は、一時期全く興味のなかったものに触れるようになり、そういった新しいものを好きとまで感じるように変化しました。
「昔と変わったな」としみじみしつつ、この変化はちょっとおかしいというか、奇妙でもありました。
「昔は好きではなかったものが、今はたまらなく好きなのはどうしてだろう?」
この問いに対する答えをここ数日、考えていました。
その結果、次の二つの推測を得ました。

一つは、小見出しにもあるように、好きではないからと言って嫌いというわけではない、ということです。
好きなものやジャンルとは、過去に自分が触れてみて心地よかったから好きだと感じるものですが、好きではないものの中には、
・一度も触れたことのないもの
・触れてみたけどちょっと受け付けなかったもの
が混在しています。
後者については二つ目の推測で触れますが、前者については実際に触れてみるまで、自身の好き嫌いの感情は未知なのです。
偏見、思い込みによって、好きではないと決めつけているものに、勇気を出して触れてみれば「あれ?好きかも」と気付くことも案外多いですよ、僕の経験上。

そしてもう一つは、好き嫌いは時期に関するのではないか、という推測です。
触れてみたけどちょっと嫌いかも、と感じることは多々ありますが、それはあくまで「そのときの自分」が嫌いであっただけで、「今の自分」は受け入れられるかもしれません。
人の考え方や思想は案外変わるもので、数年前の自分の好き嫌いも、そんなに信用できるものではありません。以前は耐えられなかったものが急に好きになる、という変化は、僕も何度も体験してきました。

気の合う友達が好きなものは大体好きになれるはず

好きではないものに触れてみたり時間を置いて試してみたりすると、好きなものに変わるかもよ、と伝えてきましたが、この変化をもたらす”きっかけ”を設けるのはなかなか大変。
好きではないものに積極的に触れたり、ある程度時間を置いて試してみたりするのは、気が進みませんよね、当然ですが。

そこで、僕が何となく実践してる「好きなものを広げるための作戦」を共有します。
それは、好きではないものに闇雲に触れる、ではなく、友達は好きだけど僕は好きではないものを試してみる、です。
友達が友達である所以は、どこか自分と似通った部分があるからで、そんな近しい人が好むものはきっと自分も好きになれるだろう、という単純な考えが元にあります。
まさに類は友を呼ぶというか、考え方や好みがどこかで似ているからこそ、友達は友達同士でいられるのだと僕は思っています。

というわけで、友達の好き嫌いと自分の好き嫌いを照らし合わせるのも、良い発見につながるだろうと僕は信じています。
そう思い始めてから、僕は友達の好きなものを進んで訊くようになりました。

好きなものが増えると視界が広がる、生活が楽しくなる

好きを広げるためには、触れてみたり時間を置いて試してみると良い、
広げるきっかけになるのは友達の好き嫌いを訊いてみること、
というお話をしてきました。

最後に「そもそも好きを広げる必要ってあるかね?」という問いに答えて記事を締めたいと思います。

僕は、広げる必要がある、と思っています。必要がある、と言うよりも、広げた方が得だよ、と言う方が適切かもしれません。


自分の好きなものの中に居続けることも、全く悪いことではありません。むしろ素晴らしいことだと思います。
例えば、僕が高校生の頃のメタル好きを貫いていれば、今もメタルの世界の中で僕は満足し、幸せであったでしょう。この満足感や幸福感は誰も否定できません。

しかし、新しいものを好きになったからと言って、元々自分が築き上げていた世界が崩れるわけでは決してありません。
僕の例ばかりで恐縮ですが、今の僕はメタルを聴くこともあれば、ポップス寄りのロックや、邦楽だって聴きます。
メタルに対する情熱が薄れたと感じたことは一度もありませんし、多様多種な音楽に触れられるようになった喜びを強く感じています。
昔の僕が決して聴くことのなかったような音楽を聴きながら、僕は今、毎日を過ごしています。一日いちにちがとても新鮮で、メタルに拘っていたら味わえない日常だろうな、と時折感じています。

皆さんも、今まで触れてこなかったものや、好きではないものに今一度触れてみては如何でしょうか。新しい感情が湧いてくるかもしれませんよ。

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