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小池龍太の人生 #1 プロを目指すきっかけと挑戦中に出会った挫折

皆さんこんにちは
前回の初めてのnoteでは、僕がnoteをはじめた理由と簡単な経歴を紹介しました。
初めて見ていただいる方は是非読んでみて下さい!

今回からは「小池龍太の人生」をテーマに、これまで僕がどんなチャレンジをして失敗や成功を繰り返してきたのか。そこからどのように成長をしてきたのかをシリーズ化してドラマのように3話に分けて書いてみたいと思います。

流れとしては下記のような時期に分けて書いていこうと思っています。
#1  幼少期〜高校生時代
#2    高校卒業後〜プロ契約を結ぶまで
#3   プロ契約後柏レイソル移籍〜海外挑戦まで

それでは今回はタイトル通り、
#1 「プロを目指すきっかけと挑戦中に出会った挫折」 です。
これまでメディアなどでも話していないことも書いていくので、僕の人生・キャリアを一つの物語のように楽しんで頂ければ嬉しいです。

父親の存在を知らないサッカー小僧

僕は母子家庭で育ちました。母、5歳年上の兄、2歳年下の弟、僕の4人家族です。読んで頂いてわかるように父親はいません。幼い時の離婚だったので、僕は父親の顔すら覚えていません。

出だしから重くなってしまいましたが、同情を誘おうとしているのではありません。強がりではなく、母親の愛情と兄弟の強い絆で、楽しい毎日を過ごしていました。

母は昼夜を問わず自分達のために働いてくれていたので、僕たち兄弟は、お昼ご飯の自炊・洗濯・掃除などをすることも多々ありました。今思えば、簡単な自炊とはいえ、小学生の子供がよく火事や火傷をせずにやっていたなと思います。

そんな日々の中、僕は5歳の時にサッカーを始めました。当時10歳だった兄がサッカーを始めたことがきっかけです。毎日サッカーボールを蹴って遊んでいたので、自然とサッカーをすることが大好きなサッカー小僧になっていました。

小学校に入学してからは、ゴールを決める楽しさを知ってサッカーがもっと好きになりました。地元の小学校チームである松ヶ谷FCに入り、東京ヴェルディのスクールにも通い、他にもフットサルなど毎日習い事でボールを追っかけていた気がします。次第に高いレベルでサッカーがしたいと思うようになったのは、小学校4年生の頃でした。

松ヶ谷FC時代


僕を強くした、初めてのチャレンジと挫折

より高いレベルのチームに所属できるチャンスがあることを知り、東京ヴェルディの試験を受けることを決めました。これが僕の初めてのチャレンジです。

結果は不合格。最終試験で落ちました。
翌年、小学5年生でも再度チャレンジしましたが、またも最終試験で不合格に。その年にはマリノスのセレクションも受けましたが、試験の結果を聞く前に「八王子から電車で通うのは難しいな」と思い帰ってしまいました。今思えば、そのセレクションでもいいプレーは出来ず、結果を受け止めるのが怖くて帰ってしまったのかもしれません。

自分で決めて、初めてチャレンジしたセレクションは、不合格という結果。高い壁にぶつかり、挫折を味わう形で終わりました。

その時の感情・感覚は今でも覚えています。本当に悔しい。それでも諦めたくない。次こそは負けたくない。今まで感じた事のない感情を抱き、小学生ながら不屈の精神が芽生えたのがこのチャレンジで得た成長です。

レベルの高いチームに行くことを諦めかけていましたが、母が色々な人に聞き調べてくれて、東京の三鷹にある横河武蔵野FC(現:東京武蔵野ユナイテッドFC)Jr. のセレクションにチャレンジすることに。悔しさと怖さに打ち勝って自分のプレーができ、4度目のチャレンジでようやくセレクションに合格しました。

横河ではレベルが高いサッカーが出来たことはもちろんですが、素晴らしいコーチ・仲間と出会えました。さらに、一つ上の学年の試合にも出場し、「高いレベルを目指すと自分の知らない楽しいサッカーを知ることができるんだ」ということを知りました。

横河武蔵野FCJr. 時代


12歳で親元を離れることが決まった瞬間

横河では小学校5〜6年の2年間を過ごし、卒業前に1枚の紙が監督から配られました。
JFAアカデミー福島という、日本サッカー協会が設立した中高一貫校のセレクションの案内です。その紙と監督からの「プロになるためのチャレンジ」という言葉に胸が高鳴り、初めて”プロサッカー選手”になる自分を想像しました。

とはいえ、全国規模で行われるセレクションで、どんな試験が行われるのか想像も出来ません。また不合格になるのかな・・・なんて不安もありながら、落ちてもしょうがない!と思い切りのチャレンジ精神で応募書類を出しました。

書類審査を通過し、毎回の合格発表にドキドキしながら、4次試験の最終選考まで進んだ時には、たくさんいた受験者も30人になっていました。最終試験は数日かけて行われ、擦り切れる様な緊張感の中で、試験途中から蕁麻疹が顔以外全身に出て大変だったのを覚えています。(試験終了後病院で点滴を打ちました笑笑)

元々知らない人との環境が得意ではありませんでしたが、これまでの試験の経験から、その中でも少しだけ目立ち、先頭に立ち、自分のアピールをすることが出来たのは、苦い経験から成長をして改善できた部分でした。

1週間後を目処に合否が書類で送られてくるとのことだったので、毎日ポストを確認していたら、試験から3・4日後には合格発表の手紙が来てしまいました。「早いからダメだったんだな」と諦めの気持ちで開封してみると・・・

結果はまさかの合格。全国15名の合格者の中の1人になることが出来ました。この合格通知は「やったぞ!!」と喜びが溢れたと同時に、12歳で親元を離れることが決まった瞬間でもありました。

入学することを決意し、これでプロになれる!と思い込んだ僕は、小学校卒業式でまわりのみんなが「中学でも勉強を頑張ります」「楽しい小学校生活をありがとうございました」などと発表する中、「プロサッカー選手になってここに戻ってきます!」と大きい声で宣言しました。

プロになれるのかも、プロのなり方も分からないのに、なんでそんな宣言をしたのか。振り返って思い出したのは、母親へのメッセージでした。「離れても安心して。大丈夫だからな」という気持ちを自分なりに考えて伝えようとした結果、あの言葉が出てきたのかなと思います。今思えばプロになれなかった時には恥ずかしい思いをしたかもしれませんが、凄く良い決意表明になりました。

「お前にはがっかりした」

次へのチャレンジにワクワクしていた僕は、JFAアカデミー福島の入寮日を迎えます。12歳で親元を離れる友達なんて誰もいなかったので、周りからは心配の声を沢山かけられました。出発の日は地元の友達が見送りに来てくれ、みんなの顔を見て不安や心配の声は頭の中から消えていて、僕の中には根拠のない自信とやる気がみなぎっていました。

福島へは母が車で送ってくれ、他愛のない話をしながら向かう車内で、ゆずさんの「栄光の架橋」が流れました。その瞬間になぜか今後の不安や、家族と会えなくなる寂しさを感じ、今までの思い出が頭の中でフラッシュバックして自然と涙が流れました。母にバレないように必死に涙を堪え、心配をかけないように強がった記憶があります。

そして、JFAアカデミー福島の寮に到着し、母が車で八王子に帰った時から本格的に親元を離れた新たなチャレンジがスタートしました。

寮生活にも少しずつ慣れてきた僕でしたが、成長期に膝が痛むオスグッドという怪我に悩まされ、中学時代の半分の期間サッカーが出来ない日々が続きました。八王子から出発する時に持っていた「根拠の無い自信」は自分の中からなくなり、サッカーを楽しむという心さえ失っていました。

それでも最高の監督と仲間に恵まれていたことで、この苦しい時期を乗り越えられたと思っています。仲間への想いを強くしたのは、中学校時代の一つの大会である高円宮杯での出来事でした。

この大会前にも僕は怪我をしていたのですが、復帰後すぐにメンバーに入れてもらうことが出来ました。しかし、ベンチに居ても試合に出してもらえる事はなく、頭では状況を理解していてもイライラを隠せずにいました。試合後に監督に呼ばれ「お前にはがっかりした。メンバーに入れたのは、試合に出る出ない関係なくチームのために動けると思ったから。出来ないならチームに入れない。」と、ストレートに言われます。その場で納得して受け入れられる程、心の余裕はありませんでした。

僕は試合に出たかった。でも「試合に出たい」という感情以上に、僕を信じてチームのメンバーとして役割を与えてくれた監督や、チームの為に必死で戦ってくれる仲間に申し訳なく、情けない気持ちになりました。

”自分のため”から”仲間のため”へと変わった視点

監督から改善点を指摘されて、その日から自分の行動は少しずつ変化していきました。それまでは、自分が良ければそれで良いという個人スポーツ視点でしたが、その日からチームスポーツとして自分が見ている世界が変わった気がしました。

その大会で僕が試合に出ることはありませんでした。チームも優勝は出来なかったのですが、チームの結果や成長が自分の成長の様に感じられるようになったことは大きな成長だと思っています。

あの時ストレートに伝えてくれた監督。本当に怖かったですが、その言葉のお陰で成長することができました。そして今もあの日の事を常に心に留め、仲間・チームへの意識はどんな時も大切に行動しています。

このように正面からぶつかってくれた監督から、ある提案をされます。攻撃を基本とするポジションだった自分に「これからのサッカーではサイドバックが大切なポジションになる。プロになりたいならサイドバックをやれ」と。

僕が中学3年生の当時は、現在のようにサイドバックが注目されていませんでした。そんな事は関係なく監督の提案を信じて受け入れられたのは、高円宮杯での出来事があったから。信じられる指導者と、サイドバックというポジションに出会うことができてよかったなと思います。

JFAアカデミー福島時代
左から小池/安東(松本山雅)/金子(磐田)/平岡(くりやま)


東日本大震災で強まったプロへの想い

個人スポーツからチームスポーツへの意識の変化と、サイドバックへの転身など、様々な変化があった中学校ですが、僕にはもう一つ大きな変化を与えた出来事がありました。

その出来事は中学校卒業式の晴れ舞台の直後突然訪れました。
2011年3月11日に起きた東日本大震災です。

中学生の3年間が終わり、来年からの生活に期待を膨らませながら、同期のみんなで卒業式で貰った思い出アルバムやDVDを見ていた時。大きな地震が起こり、テレビを見ていられる状況ではなくなり、次第に大きくなる揺れに全員でパニックになりました。

「自分の部屋の机の下に隠れろ」というコーチの声で、部屋に入ろうとドアを開けたのですが、机や棚が倒れ部屋に入ることすらできず、外に走って逃げました。外に出ても、地面が波打つような強い揺れが続きました。

近くにあった火力発電所の塔が今にも倒れそうなくらい揺れているのを見て、「あれが倒れたら死ぬのかな」なんてことも(倒れたら死ぬとは分かりませんが)脳裏によぎりました。寮が福島第一原子力発電所に近かったこともあり、次の日は避難所を探し回りました。数日後に全生徒が各自の家・家族のもとに帰ることができましたが、活動再開や仲間との再会の目処も立たない日々が続いた時は、一気に将来への不安を感じました。

サッカーが出来ず不安な日々を送る中で、「世の中に活力となるニュースを届けられる人間になりたい。」という想いが強くなり、改めて「プロサッカー選手になりたい」という夢が明確な目標になったのだと思います。

アカデミー活動再開と、人生最大の挫折

3月11日から約1ヶ月後。高校生になった僕たちは、福島県広野町にあった施設から、静岡県御殿場市にある御殿場高原時之栖に施設をお借りし、アカデミーの活動再開が決まりました。

環境や状況が一変しただけでなく、「活動再開が早すぎる」など、福島で避難生活をし続けている方々への配慮すべきでは?という様々な意見も僕たちに寄せられました。だからこそ、「自分たちが出来る最大限の努力をして世の中の力になろう」「世の中に活力となるニュースを届けよう」という思いを、僕だけでなくチーム全員が強く感じて活動を再開しました。

サッカーがまともに出来なかった中学生時代とは変わり、高校生時代はあまり怪我もなくサッカーを楽しむことができました。その中でプロの道へ進んでいく先輩たちに憧れ、僕のプロサッカー選手への想いもより強くなっていきました。

先輩たちが福島県リーグから昇格をし続けてくれたお陰で、高校3年生の時に、高校年代の最高峰リーグであるプレミアリーグに参戦する事ができました。トップリーグの中で初年度から3位となり、自信を持ったプレーができたことや、副キャプテンをしていたこともあり、チームへの想い・責任感も育めた高校生最後の1年間となりました。

リーグ戦と同時進行で、プロサッカー選手になるという目標を叶えるべくヴァンフォーレ甲府や松本山雅などのチームに練習参加させて頂きました。
高校3年生の夏頃になると、プロを諦め大学へ行くことを決意した人、サッカーを辞める決断をした人、僕と同様プロを目指す人と全員が進路を明確にしており、数ヶ月後には大学やJリーグチームから内定を貰った仲間がほとんどでした。どこからも内定がなく取り残されていた自分は、少しずつ焦りを感じていました。

唯一内定の可能性があったヴァンフォーレ甲府からも、期待とは裏腹に不合格の結果が届きます。その当時の監督からは励ましの言葉などがあったと思いますが、「取れないと言われた」の言葉以外何も耳に入ってきませんでした。「プロにはなれないのかな。」プロへの想いはその瞬間に打ち砕かれ、この挫折は後にも先にも経験できない程の出来事となりました。

導き出した、プロサッカー選手の定義

人生最大の挫折を味わった僕は、この先どうすれば良いのか全くわからず、数日間頭が真っ白になっていました。周りの仲間の進路先の話や、準備をしている姿にナイーブになっていた時期も。もちろんプロになるのを諦めたわけではなく、最後まで頑張ろうとしていました。それでも話が進まない歯痒さがあり、時間もどんどん過ぎていきました。

Jリーグチームからの内定を貰うには厳しいと判断していた監督・コーチ・先生からは、「大学進学や海外への挑戦も選択肢に入れたらどうだ」とアドバイスを頂きました。真剣に受け止め、少ない時間の中でも時間をかけて悩みました。何が正解なのか。自分がどうしたいのか。

最後に僕自身が導き出したのは「プロサッカー選手としてお金を稼がなくても、お金を払い応援してくれる方々の前でサッカーをするということは、プロとして生きることだ。」という答えでした。言い訳や妥協みたいに聞こえる方もいるかもしれませんが、この考えが僕自身を変えたと思っています。

アルバイトや働きながらでも良い。とにかくどこかのチームに所属するために、もう一度チャレンジすることを決意し、監督・コーチにお願いをしました。海外に関しては、国内で評価を経てから挑戦したいという気持ちがあったので、国内で選手を探しているチームがないか探してもらいました。

そしてラストチャンスとして練習参加させて頂いたのが、当時地域リーグからJFL(日本で4番目のカテゴリー)に昇格したばかりのレノファ山口です。

今まで練習参加してきたJ1/J2の環境とは別世界です。練習着も揃っていないし、練習場はもちろん天然芝ではなく人工芝。ですがそんなことは僕には全く関係ない。与えて頂いたラストチャンスを掴むために全力でプレーしました。数日間練習参加をして内定を頂いた時には、喜びよりも「本当か?」と疑いすらありました。

心配してくれていた母に電話で報告すると、僕がアカデミーに合格した時の様に大喜びしてくれました。その母の声を聞いて、久しぶりにやっと笑顔になれた自分を感じました。こうして大きな壁と挫折を乗り越え、サッカー選手として生きることを決めました。

母の愛情というパワー

最後に、母について少しだけ書かせて頂きます。
(今後あまり母は出てこないと思うので感謝の意味も込めて)

冒頭にも書きましたが僕は母子家庭で育ち、母親は昼夜を問わず子供達のために働き続けていました。休日は身体を休めたいはずですが、習い事の送り迎えやサッカーの試合を応援に来てくれました。全てを子供達に捧げてくれているのは子供ながらに気が付いていて、母には自分のために使う時間が無かったと思います。僕はそんな母のおかげで、好きなサッカーを続けることができました。

そしてそんな母親の元で育ったからこそ、利己的ではなく利他的であり、人を大切にするGiveの精神を常に持つ人間になろうという心が育まれたのだと思います。

最後に、心に残っている話を一つだけ書きます。
少し前に母と2人で昔話をしました。今まであえて話してこなかった離婚の話や父親の話です。この時初めて当時の母の想いを聞きました。

仕事を頑張れたのは、休みの日に子供達のサッカーや一緒にいれる時間があったから。
昔家に居なくて寂しい思いをさせて心苦しかったこと。
別れた父親からは養育費や慰謝料を1円も貰わなかったから、昼夜を問わず働かなければいけなかったこと。
子供達が自分のスターで、子供が大きくなった時に自信を持って誇りたかったこと。

笑って「強がりだけどね」と言っていた母から芯の強さを感じ、本当に感謝しかないなという気持ちになりました。

七五三の写真


最後に

母とのエピソードまで読んでくれてありがとうございました。
皆さんは今「小池龍太の人生」の船に乗り、三分の一の物語を知ってくれたことになります。僕の人生の中でのチャレンジ精神や、壁を乗り越えるメンタリティなどが、少しでも皆さんの生きる上でのヒントになれば嬉しいです。

今回の記事での皆さんからのスキや拡散多くのアクションを楽しみにしています!
SNSで投稿する際は#小池龍太の人生 を付けて頂けるとアクションを確認出来ますので是非宜しくお願い致します!
次回のnoteでは、レノファ山口から内定を頂いた話の続きを発信していきます。

では次のnoteでお会いしましょう!

頑張る時はいつも今!RYU

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