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買った夢と迫る倒産、プロサッカー選手が大決断をするまで

皆さんこんにちは。小池龍太のnoteを読んで頂きありがとうございます。
まだ#1・#2・#3を読んでいない方は、まずそちらを読んで頂けると嬉しいです。

今回は早速本題に入ります。今回のnoteは、「小池龍太の人生」シリーズの最終
回。僕の今後の取り組みにも繋がるので、最後まで楽しんで読んで頂けると嬉しいです。

海外へのチャレンジという新たな夢

柏では、J1の試合に出場し続けることでサッカー選手としての自信を持ち、ACLに出場したことで、日本を飛び出して初めて世界を舞台に戦うことができました。海外でプレーする楽しさは海外移籍を考えることにも繋がり、代理人にもこの想いを伝え、本格的にアプローチを開始してもらいました。

実際に海外の数クラブが興味を持ってくれたものの、正式オファーまでは遠く、実現しない悔しさと無力さを感じることになります。移籍期間が終わるごとに、アプローチの数と可能性が少なくなっていくことも肌で感じ、早くチャンスを掴まないと...という焦りも生まれます。

J2に降格した時も国内での移籍は考えておらず、もしも行くなら海外と決めていました。その期間内での海外移籍は実現しなかったので、柏で戦う事を決断し、1年でJ2からJ1に戻ることだけを考えていました。

そんな思いでJ2を戦っていた2019年の夏、チャンスは唐突にやって来ます。海外への挑戦だけは諦めることができず、「次のチャンスは必ず掴む」と決めていた中で、ベルギーリーグのスポルティング・ロケレンというクラブから正式オファーが届いたのです。

当時ロケレンは、1部から2部に降格する予定でしたが、その年の昇格チームの八百長問題が浮上し、ベルギーリーグによる裁定中でした。判決次第では1部残留の可能性がある状況でしたが、僕自身はもし2部からのスタートでも、今まで通り上を目指していけば良いと考えていました。

解決しなければいけない問題

そして、そんなことよりも、僕は解決しなければいけない「大きな個人的な問題」を抱えていました。それは、移籍金に関する問題です。

サッカー界では、契約時に移籍金を設定し(しない場合もあります)、その設定金額を他チームが支払えば、選手を獲得することができる仕組みとなっています。(この部分に関しては、もっと詳しく書く必要があると思いますが、今回は簡単に表現させて頂きます)

僕が抱える問題とは、設定された移籍金に対して、ロケレンは半分しか出せないと言っていることでした。少しでも多く、そして満額を出してもらうため、毎日ロケレンと代理人と僕で連絡を取り合いました。時差があるため、クラブと連絡が取れる夜の時間帯は起き続け、毎日の平均睡眠時間は3時間程度でした。

携帯を握りしめて結果を待つ毎日で、精神的にもキツイ時期となりました。この2週間は自分のコンディションと感情をコントロールできずに、仲間にも迷惑をかけたと思います。自分のことで頭がいっぱいになり、プロとしてあるべき姿ではありませんでした。成長するための大切な時間となったことは間違いないですが、未熟で反省をしなければならない事だったと思っています。

2019年:柏3年目J2時代(ゆさん提供)

自分の夢を買う大きな決断

何日経っても状況は変わらず、「半分の移籍金問題」を目の前にして、僕に残された選択肢は2つでした。

① これで最後かもしれない海外移籍のチャンスを諦める
② 残り半分の移籍金である数千万円を自分自身が負担し、自分の人生と夢を買う

どちらも、簡単に決断はできません。0円プレーヤーから始まり妻と少しずつ貯金してきたお金と、一歩ずつ歩んできたサッカー選手としての夢、どちらも大切なものです。さらに、その時に妻のお腹にはもう1人の子供も授かっていました。

妻には正直に「チャレンジしに行きたい」と伝えました。そんな僕に、妻は「私と子供は大丈夫だから、頑張ってきたお金で行けるなら後悔ない道に行こう。どこまでも着いていくよ」と強く背中を押してくれました。

こうして、自らも移籍金を払い、海外移籍という夢を買う大決断をしたのです。
移籍金を選手個人が支払ってまで移籍をすることはあまりないことかもしれませんが、僕の夢への想いはそうしてまで行くほど強いものでした。

それまで貯金の使い道を考えたことはなく、まさか海外移籍のために使うとは思ってもいませんでした。でも決断したからには、成功するしかない。言い訳や妥協はせず、強い決意でベルギーへと飛びました。

暖と僕:大決断から2日後の出国前の空港にて

ベルギーでの節約生活

妻と息子、そしてお腹の子を日本に残し、ベルギー行きの飛行機に乗ったのは、決断をしてから2日後の2019年7月30日。契約金の支払いは翌年の4月に設定していたので、ベルギーではなるべく節約して過ごそうと決めていました。

初めての海外移籍で知った日本との違いはたくさんあります。家賃補助や車を貸してくれることなどは、日本ではあまり無い契約条項です。食事に関しては、朝食と練習後の食事は必ずチーム全員で取ることとなっており、夕食だけを自分で用意する生活となりました。

お金がかかる部分の家賃や車、そして食費をカバーしてくれるのは、個人的事情からすると本当に助かります。ベルギーはレストランの料金が高いので、夕食は自炊をしました。簡単な料理でしたが、支払いをするために1円でも多く貯金をしようと決めていたので、自分に甘えることなく節約生活を送ることができました。

このような生活で本当に助けて頂いた存在がいます。日本国籍ではない男性と結婚をして、ベルギーで生活している日本人の方々です。よく家に招いていただき、夕食を一緒に食べさせて頂きました。

毎回日本食など美味しいご飯を食べさせて頂き、タッパーに数日分のおかずを詰めて持って帰らせてくれました。心が広く常に明るい、僕の大好きなお姉さん方。「お姉さんと書きなさいよ」と言われてるように感じたのでこのように表現していますが、僕の母ぐらいの年齢のみなさんで、実際に僕にとってベルギーの母たちであったと思います。これから書くきつい時期も、彼女たちの存在があったからこそ乗り越えられたと思うほどメンタル面でも支えて頂き、本当に感謝しています。

サッカー以外の時間は、英語の勉強を5時間することも少なくありませんでした。家庭教師を付けたり、チームからの支援もありました。毎日精一杯過ごしていく中で、8月9月と月日が経ち、ようやくベルギーでの生活にも慣れてきました。

なかなか振り込まれないボーナス

日本とベルギーの給料形態について書かせて頂きます。日本では、1年の給料(年俸)を12ヶ月に分けて1ヶ月ごとに頂くのが普通です。そしてベルギーの給料形態は、年俸の4割を12ヶ月に分けて1ヶ月ごとに頂き、残りの6割を数回に分けてボーナスのように頂く形でした。なので毎月の給料はそこまで多くなく、ボーナス月で大きい金額を待つ感じです。

僕は、7月・10月・1月・4月の4回にボーナス設定をしました。その理由は、4月の移籍金の支払いまでに3回のボーナスを頂けて、余裕ができると考えたこと。ロケレン側も金額的に一気に支払うのは難しいということもあり、この様な契約としたのです。

本題はここからです。

10月になり、ボーナス月の給料日にボーナスが振り込まれていません。給料は振り込まれていたし、加入してすぐにオーナーが変わり、スタッフにも変化があったため、手違いによる遅れがあったのだろうと思いました。日本では給料未払いや遅れなどはあり得ないため、その時には疑うことすらありません。

一応代理人にも伝えて確認を取ってもらうと、ロケレンからは「11月の給料と共に振り込まれる事になっている」という返答でした。海外ならこんなこともあるかなという気持ちと少しの不安の中、11月の給料日でも同じことが起きた時は、さすがに焦る気持ちが生まれました。

代理人から確認をした時の返答は「12月まで待ってほしい」でした。何かおかしいと思いつつ、クラブが経営危機に直面していると感じることはなく我慢していました。12月はウィンターブレイクで中断期間があり、数日だけ日本に帰国。この時に、第二子となる長女(杏ちゃん)が生まれ、久しぶりに再会した長男の暖くんは、2歳になりました。

一旦全てを忘れ家族の時間を楽しんだ一時帰国を終え、ベルギーに戻ったのは年明けの1月4日でした。ここからの数ヶ月は、僕の人生で最も辛い時間となります。

ベルギーでのマイホーム

日本とベルギーのサッカーの違い

少し重い話が続くので、一度サッカーの話に切り替えさせて下さい。JFLからJ1までのステップアップを実現したのだから、海外でも成功出来るはずだと思って挑戦したベルギーは過酷なリーグでした。

ポゼッションサッカーを目指す一方で、実際には空中にボールがある時間が長く、フィジカル的な要素の強い試合をすることが多くありました。フィジカルで負けているという感覚は無いものの、Jリーグ時代は“試合で疲れる”ことはあまり無かったのですが、ベルギーでは毎試合疲れを感じていました。これはインテンシティーが高いことが理由だと思います。

足りていなかった部分は他にもあります。自分の個性を出すことや数字の大切さは、海外でプレーしたからこそ、気付かされることが多くありました。自分の長所となる上下動やテクニックの部分は、問題なく強みとして表現することができたものの、唯一長所で通用しなかった部分はポジショニングでした。

抜かれた選手のカバーをすることや、自分のポジショニングで仲間の選手がプレーしやすくするというような、選手同士が協力し合ってプレーする日本より、個人能力勝負の試合が多い中で、ポジショニングで助けることの影響を与えるのは難しかったです。それでも、登録問題で出場できなかった開幕戦以外の全27試合に出場し、初の海外移籍でも今まで通り怪我をせず、プレーを続けられたのは大きな自信となりました。

2019年:ロケレン時代(HIROAKI KATOさん提供)

募る不信感やストレスと戦う日々

プレーに対する自信はついてきたものの、チーム状況は悪化する一方でした。2020年1月4日にベルギーへ戻り、12月の給料とボーナスの確認を行いました。ボーナスは振り込まれず、またしても給料だけの入金です。

ロケレンからは「1月の給料日に10月分(2回目)と1月分(3回目)のボーナスを合わせて振り込むから待ってほしい」と言われました。このときにはもはや不信感しかありませんでしたが、それでも待つしかないという状況にストレスは募るばかりです。

こんな状況の中、練習後のランチタイムで、この状況は自分だけではない事を知ります。近くに座っていた選手たちがお金について話していて、「もう2ヶ月も給料が支払われていない」という言葉に耳を疑いました。簡単な英語で僕の状況を話すと、チームメイトがクラブの状況を説明してくれたのです。この時に、クラブの財政難をはっきりと認識することになりました。

選手たちのクラブへの不信感とストレスは募るばかりで、練習や試合という状況ではなくなっており、クラブと選手は分裂しボイコットも数回ありました。こんな状況で試合に勝てる訳もなく、泥沼状態の中迎えた1月の給料日。

2回分のボーナスが振り込まれることもなく、ついに給料まで振り込まれませんでした。それぞれの選手に問題が起こり、明日家賃を払わないと家を追い出されるという選手もいました。契約内容には家賃補助がありましたが、給料が振り込まれないため、僕自身も自分で家賃を払っているのと変わらない状況です。

日ごとに起こるありえない状況に、本当に倒産するのかもしれないという不安が増していきます。チーム所有の車がレッカーされていったり、アウェイでの試合後バスの中で配られる食事が、お弁当からパン2個に変わっていったり。しまいに、ロッカーにあったコーヒーメーカーが持って行かれた時は、もうダメなんだな、、、と思いました。

どうにもならない状況で、シーズン終了と同時に、ベルギーでも新型コロナウイルスが大流行し、チーム活動も停止となります。家に居て英語を勉強し、たまに走る。そんな中で、移籍金の支払い期限が迫ってきます。「夢を買う」と決断した時とは真逆の、本当にギリギリな金銭状況でした。次第に英語の勉強どころではなくなり、iPhoneの電卓と紙を並べてお金の計算をする毎日となりました。

身近な二つの倒産と、お金を管理する大切さ

4月の契約金の支払いを前に、思いも寄らない事が起こります。当時僕の母が経営していたエステサロンを倒産させないといけない状況になったのです。昔から自分のお店を持つことが夢で、数年間は本当に順調だったお店が、激安店の増加や母の体調、加えてコロナウイルスの打撃を受けて、経営困難な状態になっていました。

お店の状況を確認した時には既に数ヶ月間の赤字となっていました。母が1人で経営をしていたので、体調を崩してしまうと利益は1円も出ず、家賃や機械のレンタル費などを支払うとマイナスの状況となります。母の体調不良と毎月膨れ上がる赤字に、僕は倒産を決断するしかありませんでした。

母は数ヶ月間1人で悩み続け、相談できないままお店を続けてしまい、ついにお店を閉店するためのお金を、自分の貯金では払えない状態となっていました。詳しく聞いて総額を把握した時には、赤字や滞納含めお店を閉店させるのに数百万円かかることがわかりました。

僕もその時点で自分の支払いがギリギリで、母への支払いをしたらその金額分がそのまま不足するような金銭状況です。しかし家族の困難を助けない訳にはいきません。妻に相談すると、「大切なお母さんを助けて」と、僕の支払いの状況を知りながら許してくれたのです。

既に3月となり、ギリギリだった契約金の支払いが足りないという状態にまで陥ってしまいました。最終的に支払いをするため、貯金したユーロを日本円にして送金し、3月中旬に僕も日本に帰国。帰国してから数日後が支払いです。最後まで足りるかわからない状況で、どうやってお金を捻出するか、飛行機の中も帰国後も、最悪のケースを考え頭がいっぱいでした。

最終的に所有していた車を売却したお金で、どうにか払える状況に。帰国後は家族のいる岡山で過ごしていたため、岡山の銀行に行き移籍金の支払いを完了させました。数千万円の貯金があった口座の、支払い後の残高は7万円でした。

本当にギリギリで支払い終えた後の4月21日、ロケレンは裁判所から破産宣告を受け、倒産となります。この1ヶ月ばかりで身近で2つの倒産を経験し、本当にボロボロの状態でした。

海外移籍を決意をし、この支払いまでの間、1番不安にさせて苦労をかけたのは、間違いなく妻です。出産もある中で僕はベルギーに行き、2人の子供を育ててくれているだけで頭が上がらないのに、お金の心配までかけてしまいました。一緒に戦ってくれたことに本当に感謝しています。

チャレンジに後悔はないですが、お金を管理する大切さと、お金は簡単に無くなるという感覚を学びました。大きな決断をしなくても分かる事かもしれませんが、僕にとっては、海外挑戦をしたことで深く考えさせられ、思い知らされた部分です。

2020年:暖くん&杏ちゃん

横浜F・マリノスへの入団

ロケレンの倒産と支払いまでを書いて、今回のnoteを終えようと思いましたが、マリノスに加入するまでの経緯はお話ししておきたいと思います。

読んでいただいている多くの方は、ロケレンが倒産して僕がフリーとなり、マリノスに加入したと思っていると思います。実際には未払いが3ヶ月以上あり、契約解除する上でのFIFAの規定を満たしていたので、倒産前に契約解除をしてフリーとなった状態でマリノスに加入したというのが事実です。

倒産後でも変わりはありませんが、いつ倒産するかが不透明だったこともあり、次のチームで1日でも早く給料を頂かなければ生活できなかったので、先に契約解除をすることにしました。せっかくここまで書いてきたので正しく伝えさせて頂きます。

契約解除後の選択肢は、マリノス一択だった訳ではありませんでした。海外でプレーを続けることも視野に入れ、実際に数クラブからコンタクトもありました。ですがコロナの状況で先行きは不透明で、契約できるのは半年後からというイメージでした。既に未払いがあり、すぐにでも給料をもらえなければ自分と家族は生活できない状況です。

これ以上自分の夢や行動で家族を苦しめたり、迷惑をかける訳にはいかない。海外でのプレーに区切りをつけ、1シーズンでのJリーグ復帰を決断しました。

未練はありません。やり切れたのか、成功できなくて良いのか、そんなことは問題ではなく、チャレンジして人生がこうなったのです。そのチャレンジと経験に誇りを持ち、声を大にして「ダメでした」と言い、切り替えるのです。

国内復帰を決断してからは、複数クラブとコンタクトを取りました。その中で1番早く返答を頂き、熱心に声をかけてくれたクラブがマリノスでした。

同じくらいの熱量を持ち声をかけてくれたクラブもあったと思いますが、最終的にはマリノスの熱心さと、2つの要因が僕の心を動かしました。

ひとつ目はサッカーの魅力です。クラブの方は、金額面だけではなくサッカーの魅力も熱心に伝えてくれました。数年前にコンタクトがあったこともあり、今回は必ず加入して欲しい選手であること。なぜ加入してほしいと思っているのかを、多くの時間をかけてアピールしてくれたのです。

マリノスが優勝した翌年ということもあり、楽しいサッカーや新しいサッカーだということは僕も理解していました。ですが、この熱心さが、マリノスのサッカーをしてみたい、学びたいと思わせてくれました。

ふたつ目は、天野純という存在です。マリノスとコンタクトを取る中で、サッカーやクラブについて語ってくれたのは、毎日一緒にいた純くんでした。純くんの性格上、多くを語ることはないですが、この時はマリノスというクラブの素晴らしさ、サッカーの面白さ、そして「龍太に合うと思う」と言ってくれました。

実際に同じクラブでプレーをしていた純くんの言葉は、どんなアピールよりも強く、話している時の表情からも伝わるものがありました。そして、純くんとまた一緒にプレーしたいという思いと共に、マリノスでプレーし活躍したいという思いにも繋がっていきました。

この記事ではマリノスでの日々については書きませんが、僕の今の姿を知ってくれている方々の目に、小池龍太が夢を買ったことの大決断や海外移籍について、後悔してるように映っていることはないと思います。そして、今が不幸そうだと思う方もいないのではないでしょうか。

いつかマリノスでの日々についても書きたいと思いますが、その前に一つだけ。
マリノスに加入できて、このクラブの一員として戦えている今、僕は本当に幸せです。

2020年:マリノス入団会見時

最後に

「小池龍太の人生」#4を読んでいただき本当にありがとうございます。全てを読んでくれた皆さんには、僕の人生をひと通り知って頂きました。細かい部分については今後も少しずつ書こうと思いますが、これまでの僕の人生で、皆さんが共感したり、何か得られることがあったのであれば、書いて良かったし嬉しく思います。

今後のnoteでの活動については、これまでの人生で僕が感じた課題や経験を元に、新しい事に取り組んでいきたいと考えています。次回のnoteから詳しく発信していくので楽しみにしていてください!

既にnoteを始めてから多くの方々に僕自身を知って頂いたり、チームの垣根を超えて色んなチームのサポーターの皆さんからの応援が届いているのが嬉しいです。これからも楽しんで頂ける発信・共有をしていこうと思いますので、引き続き応援宜しくお願い致します!

ではまた次のnoteでお会いしましょう!

頑張る時はいつも今!RYU!

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