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0円プレーヤー、プロサッカー選手になる

皆さんこんにちは。今回は「小池龍太の人生」#1の続編になります。
まだ読んでいない方はまずこちらをチェックして下さい。

noteを始めてみて、これまでの人生をしっかりと振り返り、多くのことを思い出したり、沢山の人達に助けられ成長してきた幸せな人生だなと再確認しています。加えて、人生で悩んだ時や挫折した時に、毎回自分と向き合い、考え抜いて納得して進んだからこそ、良い成果を出し続けられたことも理解しました。

その中でも「お金を稼がなくても、お金を払って応援してくれる方々の前でサッカーをすることは、プロとして生きることだ。」という価値観は自分を大きく変えました。あの時に悩み考えることを辞めていたら、プロサッカー選手としての道も諦めていたと思います。諦めずにレノファ山口から内定を得た自分を、少しだけ讃えたいです。

この記事では、山口でキャリアをスタートした日からの続きを読んで頂きます。
楽しんで頂けますように。。。

まさかの0円からのスタート

2014年にレノファ山口から内定を頂き、JFAアカデミー福島と高校を後にし、山口の地に足を踏み入れました。引っ越しなどを済ませた数日後、僕は正式に契約をするために事務所へ行きます。当時の山口は、商店街にある埃っぽい空き部屋に机がコの字に置かれ、その周りにパイプ椅子がまばらに置かれている、即席の殺風景な事務所でした。

強化部長から契約書を渡された時、「やっとチームに入るんだ。」という高揚感と「どんな契約なのかな。」という緊張感。内定時に、お金に関しては期待しないでと伝えられていたこともあり、夢を見ることもなく、どんな契約でも良いという気持ちでその場にいました。

そこで僕に提示されたのは0円の契約内容でした。

ここで少しサッカー界の契約に関してお話します。

サッカー界では、通常シーズン終了後に、強化部の方々(チームの契約・編成を主に行う部署)と来季の年俸などを含めた契約交渉が行われます。代理人と契約をしている選手は交渉前に事前に内容を知ることもありますが、そうでない選手は話し合いの時に初めて内容を知る事になるのです。

通常「0円」という契約書を強化部から提示されるということは「契約満了」を意味することだと先輩たちから聞いていました。今回、僕は「アマチュア契約」での「0円」の提示を受けましたが、そのような話を事前に聞いていたこともあり、提示された時は緊張感にも似たドキドキを感じました。

期待はしていませんでしたが、まさか1円も貰えないとは思っていませんでした。しかし多少の驚きはあったものの、強い決心が揺らぐことはなく、正式にレノファ山口と0円でアマチュア契約を結びました。こうして、晴れてサッカー選手としての人生をスタートさせました。

誰も本気だと思わない「将来の夢」の公言

0円プレーヤーの1日は、午前中に練習をして、午後に仕事するという生活です。車の免許が無かった僕は、先輩の車に乗せてもらい練習へ行き、仕事が無い日には午後に教習所に通います。免許がないと、買い物や食事に行くのも全て自転車移動です。

プロサッカー選手になったら良い車に乗って...などという想像とは遠く、寒さや暑さを我慢する日々が続きます。しまいには怪我で自転車も乗れなくなり、歩いて生活することに。この時に、早く免許を取得しなければと思うと共に、「怪我をしないために身体のメンテナンスをしっかりしよう」と心掛けるようになりました。練習前に早く練習場に行き、常に良い状態で練習に臨み、怪我のリスクを減らす意識を持ったのです。

この開幕前の怪我で、JFL初戦はメンバーに入れませんでした。復帰をしてからは、中学時代を思い出し、チームが勝つため・試合に出る為に必要なことを考え、準備をし続けました。そして、チームが思うような結果が出ないまま迎えた第3節ホームでのFCマルヤス岡崎戦、試合開始から出場できるチャンスが来たのです。結果はフル出場することができ、5−0の初勝利を果たします。

勝利後は初の囲み取材をして頂き、最後に将来の夢について聞かれました。
「4年でJ1に。そして日本代表に行きたい。」

迷いなく公言して取材を終えます。多分その場にいた記者の方々は、そこまで興味や関心はなかったと思います。そして僕が本気でこの夢を叶えようとしていること、本当に4年でJ1に行くことを実現させるとは思いもしなかったでしょう。公言したからには、その言葉の責任を果たす必要があります。気が遠くなるほどの努力と鍛錬の旅が始まりました。

2014年:JFL時代

0円プレーヤーの給与事情

デビューと初勝利に加え、もう一つ嬉しかったのが勝利給です。食べ放題の焼肉に1人で1回行けるくらいの金額(契約条項の関係で正確な金額をお伝え出来ません。)でしたが、勝利給は0円プレーヤーの僕がサッカー選手として唯一お金を稼げる方法。この数千円が初めてサッカーで稼いだお金です。

当時サッカー以外では、何をしてお金を稼いでいたのか。仕事と表現していますが、練習後に小・中学校チームに行き、スクールや外部コーチとして働いていました。金額は1回の練習・スクールで1万円です。天候やチーム日程によるスクール開催の有無の関係もあり、月に10〜15回程度が限界でした。

勝利給+月10〜15万円。そこから色々引かれた金額が給料です。僕は独り身で、サッカーに集中するためにスクールで生計を立てていましたが、家族のいる選手は、毎日練習後に山口を支援して頂いている会社・企業で働かせて頂き、お金を稼いでいました。そんな仲間達を見続け、絶対にカテゴリーを1つずつ上げ、幸せを一緒に掴みたいと思う毎日でした。

幸せを掴むためには、多くの我慢や結果が必要なのは当たり前です。ここからは我慢をしながらもがき続け、結果を出していく僕の人生を共有したいと思います。

サッカー選手としてはあるまじき食生活

月に10数万円程の金額で生活をしていたこの時期が、一番キツく苦しい時期でした。それでも生活をしていけたのは住む場所があったこと。もちろん僕の実家ではなく、レノファ山口が所有していたアパートです。ここに住めば家賃がかからず、光熱費だけで生活することができました。

他で家を借りるお金もなく、当然そこに住ませて頂くことになります。ただ、家賃がかからない分、住むには厳しい環境でした。アパート名「ベルソル」、この名前を聞くだけで当時の仲間は笑います。1Kの部屋が10室位ある、築約30年の建物です。周りは田んぼで街灯はなく、いたるところに蜘蛛の巣があり、害虫も当たり前のように出ます。

虫が大嫌いな僕には毎晩肝試しのようでした。そして夏になるとカエルの大合唱、大風で窓が飛んでいくのではないかくらいの揺れと音で「寝れるか!」状態の日もありました。我慢するしかありませんが、早く違う家に行きたくて仕方がない毎日です。

更に僕を追い込んだのは、サッカー選手である以上1番と言えるほど大切な「食事面」でした。どんな生活であっても栄養のある食事を心がけ、母にもしっかりと食べてねと言われていました。自炊に挑戦したものの、完全に能力不足で1人分が高く付いてしまうこと。大した料理もできずに、食事の準備で時間が奪われ過ぎること。このような生活は続けられないと思い、次第に外食をするようになりました。

安い定食屋さんを探し、高カロリーではなくバランスを考え、食事に時間をかけない生活にシフトチェンジしたのです。時間の問題は解決しましたが、次にお金の問題に直面します。食事だけにお金を使える訳もなく、口座残金がギリギリに。

こんな時はカップラーメンやレトルトパスタなどでお腹を満たし、生きるための生活をしました。サッカー選手としてはあってはならないことです。

でもこの寂しい食生活が、1日も早く良い環境に身を置きたいと思わせる原動力となりました。この1年は、お金の大切さを身に染みて感じ、金銭感覚を養う時期になったのです。そして、「サッカー選手として生きられることは当たり前ではない。」ということが心と体に刻み込まれました。

2014年:JFL時代

JFLを突破して夢のJリーグへ

JFLでは、全員がサッカーを楽しみ、チャレンジャーとして戦うことができ、更に勝つことでチームのスタイルを明確にしました。これらの理由だけではないですが、JFL参戦から1年でJ3に昇格を決めたのです。

選手が結果を出すだけでなく、クラブが体制を整えようとする姿勢に、多くのスポンサー様からのサポートと、ファン・サポーターの皆様からの応援を頂きます。その力が一つになり、昇格という大きな結果を出せました。この昇格は大きな成功体験となり、間違いなくその後のJリーグ昇格後の快進撃に繋がっていったと思っています。

僕自身にフォーカスすると、ただガムシャラにサッカーをしていた気がします。来年もサッカーを続けられるようにと結果を追い求め、突き進むだけの1年となりました。その結果、JFLの全26試合中14試合と半分以上の試合に出場することができました。JFLというリーグで、1年目からレギュラーとしての立ち位置をある程度確立し、試合に出場できたのは大きな成果です。

山口から契約延長のオファーを頂き、JFLからJ3へ舞台を変え、ついにJリーグでサッカーができる大きな喜びがありました。そして、0円契約からお金を頂ける新契約に。迷う事なく即答での契約更新でした。

僕にとっては初めての嬉しい契約更新でしたが、一方で19名の選手がチームを退団することになりました。チームの為に身を削り成長を支えた仲間と、半分以上別れなければならないのは本当に辛かったです。

山口では、契約満了を区切りに自ら道を退く選手をたくさん見ました。年齢的にはまだまだ継続可能であっても、家族を持つ選手たちは「サッカー選手としてチャレンジできる時間」にある程度のタイムリミットがあるように感じたのです。これは僕にとって重い経験となり、サッカー選手であり続ける難しさを改めて感じました。

自分も、サッカーでお金を稼げるようになったとはいえ、練習をしてスクールに行く日々は変わりません。J3時代の給料は、勝利給やスクールを合わせると約20〜25万円で、スクールの回数を減らしてもある程度のお金を稼ぐことができました。金額は増えたものの、漠然とした将来への不安と緊張感を抱き続けていました。

そんな状態でも、夢であり目標だったJリーグでのプレーに心躍らせ、新シーズンの毎日は楽しみが多いスタートとなりました。

J3で出会った「自分の強み」の根源

2015年になりJ3での1年は、JFLで得たヒントと改善点を元に自分改革に取り組み、積み重ねる度に山口と自分の強みに気付く毎日でした。当時の山口は、パスサッカー(パスを繋ぐ攻撃的なサッカースタイル)で戦っていました。得点を多く取り、どんな相手でも自分たちのスタイルで戦うサッカーは、その面白さが強みとなります。加えて、結果としてもJ3で多くの勝利を掴み、強さも兼ね備えることができました。

結果も大事な要因ですが、勝利だけでなく、サポーターの方々が自分たちのサッカーを毎試合楽しんでくださったことで、サポーターの数も次第に増えていきました。県にプロスポーツチームが無かったこともマッチして、山口市だけでなく山口県全体が一気に盛り上がり、地域密着していく様子を肌で感じることができたのです。

これは最初からJ1・J2のチームに入団していては感じることの出来なかった特別な経験で、スポンサー様やファン・サポーターの皆様の大切さを実感することができました。当たり前ではなく、感謝の気持ち・大切さを行動で日々表現しなければならない存在だと気付かされました。

自分自身については、JFLでレギュラーとして戦えたことが自信となり、周りからの信頼も少しずつ大きくなっていくことを感じたJ3での1年でした。その経験の中で、今後強みとなる根源にも出会うことができました。

その根源は「信頼・自信は時に実力より大切になる。」こと。

いくらサッカーが上手くても、監督・コーチ・選手からの信頼が無くては試合に出場できないし、自信が無くては試合で実力を発揮できないのではないかと考えたからです。

これを自分の強みとするには何をしたらいいのか。答えは意外にも簡単に出てきて、「怪我を無くし、試合に出続け、結果を出す。」ということでした。簡単に聞こえるけれど、実行するのは難しい。これを実行できれば自然と評価は上がり、勿論最終的には実力が必要になりますが、実現したい目標に近づけると考えたのです。

サッカーに集中し怪我をなくすために、スクールの回数を減らし、今までよりも食事や栄養、睡眠に気を遣うようになりました。正しいかどうかは分からないけど、自分なりに分析して考え出した答えで成功への道を作るべく、全力で走り続けました。

2015年:J3時代(あかねた@さん提供)


信頼と自信がもたらした、自分の生き方への確信

「怪我を無くし、試合に出場し続け、結果を出す。」

ここにフォーカスしたJ3での1年目は、全39試合中30試合に出場します。

サッカー選手として生きる自覚が芽生え、食事と睡眠の改善でかなりの変化をもたらし、0では無いですが怪我を減らすことができました。これが良いかどうかはさておき、多少の怪我や痛みで休むことを無くし、どんな時もプレーするというメンタルを身につけたことも成長した部分です。

どんな時もプレーを続け、パフォーマンスを保ち続けると、チームやサポーターから多くの信頼と評価を得られると感じました。これは自信に繋がる好循環をもたらしたのです。自分だけでなく山口も勝利を積み上げ、自分たちのサッカーに自信を持ち、J3での快進撃を続けました。そして、J3昇格から1年で、J2への昇格も掴んだのです。

忘れられないのは、J2昇格を決めた最終節のドラマです。

知っている方もいると思いますが、2015年11月23日J3最終節のガイナーレ鳥取戦です。この試合は、結果次第でJ3での優勝&J2への自動昇格か、準優勝して入れ替え戦になるかが決まる大一番でした。

優勝を争う2位のFC町田ゼルビアとは、同勝点ですが得失点差では山口が優位でした。町田と同じ勝点を獲得できれば優勝できる状況での最終節は、その後の山口の歴史に残る試合となりました。

同時刻開催の最終戦。先に試合終了した町田は、引き分けで勝点1を獲得し、暫定1位になります。一方山口はその時点で1-2で負けている状況でした。負けることは許されない試合で、ドラマはラストプレーの90分+6分に起こりました。僕のアシストから同点弾が決まり2-2となり、ゴールと共に試合終了のホイッスルが鳴りました。山口も勝点1を獲得したのです。

今でも(あの得点が決まっていなかったら...)と思うとドキドキするくらい劇的な試合でした。町田の結果を知らなかった僕は、試合が終わり、ベンチメンバー・サポーターの皆さんが大喜びしているのを見て、優勝したことを理解しました。涙が溢れて、これまでの頑張りが少し報われた気がしました。

チャンピオンとなったシーズンでもレギュラーとして戦うことができました。自分が考えて導き出した「怪我を無くし、試合に出続け、結果を出す。」ことで、信頼や自信を得られた時に、自分の生き方に確信が持てたのです。

2015年:J3優勝(れのんさん提供)


人生の将来像も明確になった、家族との出会い

この最終節には、サッカー選手として前進するだけでなく、自分の人生も前に進める出来事がありました。記事の最後は家族の話になりがちですが、今回も大切な出来事なので書かせて頂きました。

この試合に、当時は彼女だった妻と、彼女のご両親が、車で2時間かけて応援に来てくれていました。J3チャンピオンとなり昇格を決め、チームから翌日の休みと現地解散の承諾を得ます。僕は急遽、3人の乗ってきた車に乗って、彼女の岡山の実家を訪れることにしたのです。

ちゃんと会うことも話すことも初めてですが、試合に感動してくれて、優勝を喜んでくれました。車内での楽しい会話とご両親の優しさで、仲良くなるのに多くの時間はかかりませんでした。

実家に行く前に、近くのご飯屋さんで4人で食事をして、1番最初に優勝のお祝いをしてくれました。ご飯に行けるだけで嬉しいことはもちろんですが、一見ありふれたお祝いの乾杯は、僕にとって「お父さんという存在」との初めての乾杯だったのです。

父親の顔も存在も知らなかった僕に、初めてお父さんが出来た気分でした。もちろん彼女のお父さんですが、その時から既に僕の中ではお父さんになっていた気がします。おめでとうの言葉と共に、お父さんと乾杯したことが嬉しくて泣きそうでした。(こんな感情になったことを、3人はこの記事で初めて知ると思います。)

楽しい食事を終え、実家に初めてお邪魔した僕は、家で待ってくれていた2人の姉妹に「ただいまーーー!」と言い大スベリ。三兄弟で育った僕が、思春期の姉妹2人の輪に入っていくには1番良くない方法だったかもしれません。(やばい人だと思われたと思います笑)

その後みんなで談笑している様子を見て、家族がこんなに楽しそうで、お父さんから愛されている子供たちって幸せそうだな...と感じ、ご両親の仲のよさも含め、全て僕の理想となりました。

実家への訪問で、彼女をもっと大切にしたいという思いや、あんな夫婦・父親になりたいという憧れを抱きました。
そしてもう一つ、この家族の一員になりたいという感情も芽生えました。

今では家族として、とても仲良くしてくれています。岡山の実家に帰った時は、お母さんには娘たちよりも手をかけてくれていますし、お父さんには孫たちと同じく息子のように可愛がってもらっています。(妻の母方の祖母の家は、僕のポスターやらグッズが日々増えていきます。こんなにも嬉しいことはありません。)

J3での1年は、サッカー選手としてもひとりの人間としても、将来像を明確にすることができ、重要な年にすることができました。間違いなく人生の中で大きな1年で、最高のJリーグデビューだったと思います。

晴れて正真正銘のプロサッカー選手に

山口からは、J2を舞台に戦う来季の新契約で、晴れてプロ契約を結ぶ意向を示して頂きました。これまでのようにサッカー以外でお金を稼ぐことなく、サッカーだけで生活ができるということです。やっと掴んだプロ契約は、高校卒業時に叶わなかった大きな目標で、その契約書を見た時はやはり感慨深く、言葉に出来ないほど感動しました。

給料・勝利給もこの年から大幅な改善がされ、苦しい時代にお別れを告げる気持ちでした。そして契約更新をした日に、晴れて正真正銘のプロサッカー選手となりました。もっと安心したり慢心したりするのかなと思っていましたが、実際には正反対の心境でした。J2で戦う1年が勝負の年だと思い、オフシーズンから良い状態を保ち、早く新シーズンが来て欲しいと思っていたのです。

困難を乗り越えた自信と、明確になった強みによって、この時が1番怖いもの無しの状態だったと思います。これは過信ではなく、0円契約でもこの道を選んだからこそ出来た生活や、試行錯誤し続けながら取り組んだサッカーが、大きな経験値となり自分の武器になったからだと思います。

2015年:J3優勝後オフシーズン(myumyuさん提供)


最後に

ここまで読んで頂きありがとうございました。
#1から読んで頂いた皆さんには小池龍太の人生の3分の2の物語を見て頂きました。

かなりの文量だったと思いますが、まだ書ききれていないことも沢山あります。細かな部分は今後も少しずつ伝えていきたいので、感想と共にSNSで #小池龍太の人生 のハッシュタグを付けて発信して頂ければ嬉しいです。

次回のnote 「小池龍太の人生 #3」では、J2での戦いから柏レイソルへ個人昇格を果たし、海外挑戦が終わるまでを書く予定です。人生の物語は次回で一旦終わりを迎える事になりますが、僕の今後の取り組みに繋がる大切な物語ですので、是非最後まで読んで頂けると嬉しいです。気持ちを込めて書きますので楽しみにしていて下さい。

p,s
これまでの記事では、1000を超えるスキや多くの拡散をして頂いております。できる限り目を通していますし、嬉しい感想の多さに、noteをはじめて発信して良かったと思いました。同時にもっとスキルを上げ、少しでも伝わりやすい文章を書けるようになりたいと思っています。

これからも記事・取り組みを応援して頂けると幸いです!
引き続き皆様からのスキ・フォロー沢山待っています!宜しくお願いします!

ではまた次のnoteでお会いしましょう!

頑張る時はいつも今!RYU!

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