彼は鯨のように叫ぶ

吉川永祐の作品「エビスの呼ぶ声」は人間と非人間のあいだ、文明と自然のあいだ、海に潜っているのか、海から座礁しているのか、その両極の相互を揺れ動き、転位しながら振動する。それを象徴するのは声であり、発せられる叫びは、「叫んでいる」ということだけが感覚される。何かを伝えようとしているのか、あるいは心の内を吐露しているのか。文明的で記号的な声、つまりある言語を発しようとしている事はわかるが、その言語自体がその文明性と記号性を剥がされ、宙吊りになっている。

それは鯨の鳴き声に似ている。

資料館に詳しい情報は残されていなかったらしいのだが、どうやら、内灘海岸ではクジラが座礁していたらしい。大きな原因の説の一つは、鯨が発する超音波の反射によって自身の位置を把握するエコロケーションの乱れだという。それは空間的な問題の場合もあれば他の音波の干渉による場合もある。例えば、ナマズは、自身の体から発せられる電波によって空間把握を行うが、他のナマズが近づいてきた場合、同じ電波が干渉し、自身の位置間隔が分からなくなる。それを防ぐために、電波を逆相同期させる事でそれを防ぐ。周りに合わせる事。

「鯨は歌う。」

鯨は自身の声(周波数)を複雑に変調し、それを人まとまりのテーマとして反復する。歌は文明だ。鯨は文明の声を出す。一方で、わたしたち人間にはそのコミュニケーションがどのような記号性や意味性を持つか把握できない。ただ周波数の高低と振動の強弱によって彼ら/彼女らの動向を定義付けることしか…。わたしたちは鯨にはなれない。しかしわたしたちは鯨のそれを歌と呼ぶ。歌と呼ぶことができる。



古来、日本で鯨はエビスと呼ばれていたそうだ。エビスは豊穣の神であり、座礁した鯨は一頭で人々の食に寛大な利益をもたらす。座礁した鯨が、我々のために自らその身を差し出し、富をもたらしているエビスの化身であると考えられていたことに由来するらしい。



船や騒音の影響によって鯨に負荷がかかり、窒素が蓄積されることでそれがストレスとなる。その影響で音波の感覚機関に乱れが生じ、座礁する。それをわたしたちは、「鯨の自殺」と呼んでいる。



1950年代に内灘に接収された米軍の基地場は反対運動によって撤退したが、拠点となった指揮場や観測場は今でも残り続けている。あれだけ接収が反対されたこの建築物は、歴史を忘れないために、という口実の元、市の文化財に指定された。突然現れた異物と共存すること。それはそこはかとないどうしようもなさと都合の良さがまとわりつく。






さて、彼の作品に話を戻そう。彼の作品は「内灘闘争〜砂と風の記憶〜」という展覧会に出展されたものだ。しかし、彼の作品は直接的に内灘闘争を扱ってはいない。だが、それは決して内灘闘争と関係がないとして切り捨てる事はできないように思われる。
異物が到来すること。それを理解しようとすること、それを共存と呼ぶとき、それはそこはかとないどうしようもなさと都合の良さによって規定される。それは完全に否定されるものではない。そもそもどうしようもなさから出発するしかないのだ。周りに合わせられなければ排除されるのか。異物でありながら、しかしここにいることをどのように叫べばいいのだろう?
環境に合わせる事、それはそこでの環境とは到底無縁の意味によって規定されることを忘れてはならない。それを忘れるという事は、自身の中にも絶えず異質性が備わっていることを棄却することだ。いつだってわたしたちは両義的なのだ。故に彼は間違いなく内灘で闘争/逃走していた。

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