ネット社会 比較をして生きるのは辛い
ここ10年ほどにおける大衆へのインターネットの普及は著しいものがある。
生まれてまだ間もない子供がタブレット端末を手に取り、そして動画を見る。高齢の方でもアプリやゲームなどを楽しむ姿をよく見かける。
これを功と捉えるか罪と捉えるか、考えるのはナンセンスであろう。ものごとには、明るい側面もあれば暗い側面もある。
ネットの世俗化であってもそれは一緒だ。
幼児が動画を見ることは、知育、教養の取得などさまざまな面にも役立つし、高齢の方のゲームであっても生きがいの形成や老化防止などといったメリットもたくさんある。
ただ、我々ティーンエイジャーや少し上のミドル世代。暗い側面に目を向けて一つ思いつくのは、やはりSNSの発達により他人と言うのがより身近になったことではないか。
ひと昔前ならば、自宅に帰ればそこには自分、良くても家族というコミュニティしか存在しなかった。
携帯電話が普及してメールが気軽に行えるようになった時代でもリアルタイムで他人が何をしているかというのは、あまり知ることはなかった。
ただ、近年というと、スマホを開けばTwitter、Facebook、LINEなどで、24時間365日他人がどこで何をしているのか、これがリアルタイムで休むことなく入ってくる。
言い換えれば、他人がいつもすぐそばで、生活をしているような錯覚を起こすような世の中になりつつある。
人間というのは罪深い生き物でどうしても他人と比較をして生きてしまうものだ。そして、そこには嫉妬という感情が生まれる。
嫉妬。これはどうしてもみっともなく聞こえてしまうこともあるかもしれないが、そこまで悲観することでもない。
あのギリシア神話の神、ヘーラーは嫉妬の神である。
ギリシア神話と言うのは、紀元前に生活していた人々の思想が集積した物語だ。
嫉妬というのはそれほど、初期人類から備わる普遍的かつ一般的な感情なのだ。
我々が日々嫉妬をしてしまったり、他人と自分を比較してしまう。これはなかなかにして、一般的な思想の帰着と言えるであろう。
話が少し横道にそれてしまったが、このように他人が近くに寄り添う現代においては、どしても比較をする機会が多くなってしまう。
意識をしなければよいと言えばそれまでだが、これだけ莫大な情報が入る昨今においては、非常に難しいであろう。
インターネットの世俗化は非常に便利であり、高度な社会をもたらしているが、やはり人間に元々備わった本能的な部分を制御するには、至っていないのかもしれない。
※これは私の思想であって、まったくもって正しい意見であるわけではありません。
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