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彼女の下の名前も忘れたけれど

物事には始まりと終わりがあって
始めてしまえば終わりに向かうしか道はない
「だから、私にはまだ始めたくない物語があるんだ」


***

「好き」と「したい」は違う


1年前、ものすごく好きだった彼女にフラれ、僕は恋愛をしばらく止めた。

かといって、若かった僕らの自然と出てくる性欲に勝てるほど意思の強くなかった僕は、月に一度遊んで体を重ね合わせてくれる人にぶつけてた。



「、、はじめまして、」

バイトを新しく始めて1週間が経った頃に声かけてきたのが彼女だった。

というより"店長に言われて仕方なく挨拶にきた"印象に近い。


長い髪をゴムで簡単にまとめ上げ、大きい胸を強調しないように大きめの服を2枚重ねた姿が特徴的で、色白。笑うと目が細くなった。
父が関西なのだと関西弁が少し混じった標準語を話し、小さな事でもよく笑う子。

そんな子に僕は出会って数分で恋に落ちた。
けれど、この子は僕みたいな子を好きにはならない事は容易に想像できた。


僕たちはお互いを名前で呼び合うことはなく、ねぇ、とかの言葉で呼び合った。
お互いをよく知ることもなく、バイトの飲み会の帰りに酒の勢いに任せてラブホテルへと流れ
軽率にベッドを揺らした僕らにとって互いの名前は価値のないものとして判断された。


互いのLINEに通知をためることはなく、2回目からはバイト終わりに相手の肩を叩くことが合図になった。

どんなに相性がよくても、馬があっても、どんなに気を許せても、僕たちは付き合うことはなかった。


それに、彼女には恋人がいた


互いのことを深掘りすることもなく、互いが互いのままでいれるように、当たり障りのない会話だけを選んで2人の世界に並べた。
それが2人にとっては気持ちよくて、居心地の良いものであったことは間違いなかった。



軽率にベッドを揺らしてから3ヶ月もした頃には彼女の私物が僕の家に置かれるようになり、冬服から春服へと移っていき、洗面所には彼女の歯ブラシも並んだ。

彼女のインスタグラムのストーリーには3枚に1枚の確率でマッシュヘアの長身の男がアップ気味に写り込んでいて、そんな彼女が彼とのインスタをストーリーにアップしながら、他の男の家で、2人体を縮こめて、40℃に満たないぬるめのお湯をバスタブから溢れさせているなんて、ただの惨劇でしかなかった。


でも実際、そんな関係に僕らは夢中になっていた。
そして、そんな関係を愛おしいと思えるくらいには僕らは狂い、驕り、儚さの中にいた。


終電間際にやってきて、狂うように体を重ね
翌朝早くには抜け殻のようになった衣服を身にまとい、玄関でキスするわけもなくさっさと家を出て行った。

それでも僕らは、ちっとも美しくなかったこの時間を愛でるようにして1つ1つの瞬間に涙を流した。
彼女の髪をドライヤーで乾かしている時間だけが、彼女を独占できている気がして幸せだった。

そして、鏡越しに目が合うたび世界一優しい顔で微笑む彼女を見て、世界一幸せな男になれた気がするあの瞬間に恋をしてた。

その日は、いつにも増して深酒をして、普段は酔わない僕達も立っていられないほどふらふらに酔ってた。新宿駅からタクシーに流れ込むようにして乗り込み、僕たちは家へと帰った。

珍しくふらふらの僕達に他人事みたいに自分たちで笑った後、2人ベッドになだれ込む。
少しうたた寝をした後、彼女の手が伸びてきて僕の髪を撫でた。その日の彼女は少し違った。

「ねぇ、君の世界の空は何色?」
と彼女が急に重い顔をして言った
「なに急に、酔ってる?」
と返すと、すかさず
「君の空は何色?」と聞いてくる。

僕は彼女に背を向けて、えーどうだろうね。
黄色かなぁ、と適当に答える。
実際、空が青く見えたことはなかった。

「あとは透明かな」
「青じゃないんだね」

自分から聞いておいて馬鹿にするのかと少しムッとして聞き返す。

「そんなこと大事?」
「大事じゃないこともない。君の見てる世界が知りたくなった。」

僕は、この女の子が僕のことを思ったより気にしていることに満足感を得ながらふーんと誤魔化した。

「思うんだよね」

そう言いながら彼女は僕の髪を撫でた。


「物事には始まりと終わりしかなくて、始まってしまった物語は終わりに向かうしかないんだ。って。」
なんだそれ、寂しいじゃん、と笑う僕に、そうかもねって彼女は笑った。

彼女の手がゆっくりと首筋をなぞっていく。
きっと彼女はこうやって自分の寂しさを人と共有して生きてきたんだな。
そう思うと、今誰よりも物語の終わりに直面してるのは僕であって彼女なのかもしれないと思えた。

肌の温かさ、髪を撫でる仕草、優しくかけられる言葉。何一つ同じものはないのに、僕たちはその夜、子供みたいに抱き合って泣いた。

この人とずっと一緒にいられたら、全世界が敵に回ってもいいと思えた。

この関係が、こんなにも不自由だと思えたのはこの時が初めてだった。


僕たちが会わなくなって3年ほどになる

彼女の下の名前も忘れてしまったが
あの寂しそうな顔は今でも鮮明に覚えている

きっと彼女にとっての僕は彼女の人生でもう二度と関わることのない彼女をかわいいと言って抱いた男のうちの1人になってるかもしれない。
それは僕にとってもそうで、その他大勢。


キス以外は下手くそなセックスだった。
もっとどうでもいい女の子と寝とけばよかった
彼女とは寝なかったらよかった


僕たちの関係には、何の価値もなかった


君との物語は、始めたくなかった

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