「昔 住んでた小さな部屋は 今は他人が住んでんだ」


うわ、キーボードでなにか打つのめっちゃ久しぶりやねんけど。生きてる?俺の4万円のノートパソコン。久しぶりだねえ。修論提出してからほとんど動かしてなかったよ。

 

やあやあみなさん、はろぅ。元気でっか。ぼくぁしょうみ微妙っす。もう5月やん。

修論終わってから色んなことがアリストテレス。ありすぎてね。うわ、バカつまらんやん。いまね、まあまあ酔ってます。でもね、わざわざこのパソコンを立ち上げ文章を打ち込んでいるということはですね、そうですね、ちょっとでも書こうかなと思ったんすよね。いや、書かなきゃいけないのでは、と。

 

 

えーー、まあ大体の人は知ってると思うんすけど、1月初旬に修論を提出し、2月頭に修論公聴会を終え、3月下旬に大学院をめでたく修了し、ボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロ泣きながら、京都から東京に引っ越し、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやながらも4月から働き始めました。

 

 

でね、ボロ泣きしながら京都から東京に引っ越した日が2022年3月30日。

めちゃくちゃ不安な気持ちで往復ではなく京都への片道切符を買い、湘南から京都に引っ越した日が、2013年3月30日。なんという偶然。約9年間、京都に住みました。

 

 

そんな9年間、人生の約三分の一を過ごした京都を去ることは、本当に断腸の思いだった。まるで人生最後の日を迎えるかのように、京都での出来事を記録したくて、本当になんでもないような道やら景色を、写真ではなく動画でおさめた。本当はこの辺でnoteを書いて当時の気持ちを残したかったけど、そんな余裕は時間的にも精神的にもまったくなかった。

 

 

3月30日、一睡もすることができずに迎えた京都最後の朝はドタバタしていた。京都駅に着き、品川行きの片道切符を買う。このあたりからもう泣き始めている。新幹線ホームに上り、先頭車両の16号車に向かう。目の前には大規模の再開発が進んでいる京都駅東側地区の崇仁地区。ああ、ここの歴史の勉強したな。大学院でずいぶんこの地域には詳しくなったと思う。そんなことを考えていたら、学生生活の終わりを告げる新幹線がやってきた。東海道新幹線の最速列車、のぞみ号。



なにがのぞみじゃボケ、いまの俺にとってはのぞみなんかじゃなく、ぜつぼう、かなしみ号の方が似合っている。でもいったいじゃあなんで、そんな京都を去ることにしたんだろうか?京都という街については、学部1回生の初期からずっと付き合いのある4留した友人と、大学院の同期と、散々いろんなところで語り合ってきた。

 

 

いつからだろう?京都という街に閉塞感を覚えるようになったのは。

 

 

明確に覚えているのは京都6年目の、2018年。学部6回生の秋、京大への大学院進学が決まったとき、第一志望の研究科に行ける、引っ越しもせずに済む、ということで非常に喜んだ。が、しかし、第二志望の研究科であった早稲田にも後ろ髪を引かれた。教授、研究室の規模、カリキュラム、そんなことではなく、早稲田が関西の外、京都の外の街にある、という点であった。

 

 

「この街に、あと最低でも、2年は住まなきゃいけないのか……」そう、思ってしまった。この街に、退屈を、マンネリを感じ始めてしまったのである。もともとアウトドア派であり、かつ4留をはじめとした友人たちもそうであったため、自転車にはじまりバイクやレンタカーなんかを借りて、京都の至るところを行きつくしてしまったのである。京都市内は当然ながら、北部の福知山、舞鶴、伊根、天橋立も何度も行った。

 

 

2019年、大学院修士1回生、京都7年目。

この街に残っている学部時代からの友人は4留と、兵役から帰ってきた留学生の友人のふたりだった。少ないように思えるが、真っ当にいけば2017年3月卒だった俺らがまだ残っていることに、この街の魔力を感じた。

 

 

7年目は、京都市内の中でもいわゆる「洛外」エリアにも足を運ぶようになった。南区、山科区、伏見区、西京区あたりである。このエリアは自分が住んでいた上京区からは少し距離があったものの、4留とよく訪れた。「地元」という表現が、このエリアにはぴったりだった。主な日常生活圏内であった上京区や左京区、中京区は治安が良すぎて、逆に居心地が悪いと感じることが多々あった。階層化が進んでいるエリアと言えよう。このエリアでヤンチャな子ら、ヤンキーや暴走族などを見掛けることは皆無であった。実家のある湘南は毎週金曜土曜日の夜になると、江ノ島や鎌倉を目掛けた違法改造車のバイク集団の騒音が響き渡り、「あぁ、もうそんな時間か」と、ある種時報として機能していたのだが、京都に来てから全く遭遇することがなくなり、すこし寂しさを覚えた。

 

 

伏見区に足を運んでいたのは「地元」を感じるためであった。「洛中」エリアにはほとんどないスーパー銭湯が、伏見区にはあること。そしてなによりドン・キホーテがあるからである。4留とはよくバイクで伏見区の閉店ギリギリのスーパー銭湯に駆け付けたあと、早朝まで営業しているドン・キホーテで2時間ほどダベっていた。伏見のドン・キホーテには、たこ焼き20個で300円ほど(だったはず)というぶっ壊れ価格のたこ焼き屋が併設されており、駐輪場の地べたに座り、たこ焼きを頬張りながら夜が明けるまで語りとおした。客層はお世辞にも良いとは言えなかったが、「洛中」エリアではなかなか見かけることが出来ない人ばかりで、完全にここは「地元」だった。


 

話が伏見区に振れすぎた。7年目。このように距離があった「洛外」エリアに足を運びつつも、退屈を隠すことはできなかった。スーパー銭湯から上がった後、鴨川を橋の上から見下ろしながら、「俺ら、いつまでこの街にいるんだろうな。このまま一生京都に住むのもアリかもな。」と、自嘲気味によく語っていた。

「洛中」エリアからは高速道路を見ることができないので、当初はそれすら新鮮だった。


ある日、募りすぎた退屈を晴らすために、スーパー銭湯で整ったあと、伏見区の名神高速京都南インターのラブホ街に、バイクで突っ込み、ひととおりラブホ街を走り回ったあと、嵐山の方まで走り、持ち込んでいたコッヘルで湯を沸かし、蒙古タンメンをすすりながら朝を迎えた。この日の事は忘れられない。でもこうして今書きながら思う。やってることが高校生なんだよな。しかし、もはや、こういうことをしないと、この街で退屈をしのぐことはできなかった。



 

当時の俺らに、おすすめの京都の観光案内をしてください、と言われたら、まず右京区西院の近くにあるイオンモール五条にバイクを停め、近くの地球規模で考えろという二郎系ラーメンの店に行ったあと、バイクで鞍馬やら大原、京北などに行き、その後は伏見のスーパー銭湯+ドン・キホーテという黄金ルートを提案するに違いないだろう。「京都らしさ」が1ミリも感じられない、素晴らしい行程となっております。

これは右京区の樒原。本当に京都市内なのだろうかと疑う。観光ガイドブックはおろか、地元民ですら知ってる人がほぼいない、めちゃくちゃ好きな場所だった。
 

 

結局、2019年の京都7年目は、こうした退屈しのぎに加え、大学院での研究がうまくいかないこともあり、マッチングアプリ中毒になっていた。2日に1人ペース、もっとキマってた時は1日で何人もの人と会ったりしていた。とにかくこの時期は新しい刺激を求めていた。

 

 

そして2020年、京都8年目、修士課程2回生。良くも悪くも今までの日常が感染症によって破壊され尽くした。こんなに観光客のいない、スッカスカの京都には驚かされた。いつもは人でごった返していた京都駅ポルタ、四条通、河原町通り、清水寺、祇園、市バス9・12系統……、嘘やろというくらい人がいなかった。特にショックだったのは祇園祭(宵山)が開催されなかったことだ。1年も欠かさず行っていた大好きな祇園祭が、自分要因ではなく社会的要因で行けなくなるなんて、とてもじゃあないけど予想できなかった。ちょうど感染症が流行し始める前くらいに、彼女ができた。ほぼ半同棲状態。おかげでこの街での退屈をあまり感じずに済んだ。

2019年の祇園祭、四条烏丸。コンチキチンの音が大好きだった。

 

2021年、京都9年目、修士課程3回生。とにかく修論と就活に追われた年だった。分かりきっていたことだけれど、就活は学部時代以上に苦労した。何も考えずにうっす!うっす!と元気よくやっていた若い方がやはり企業のウケは良かったと思う。結局、就活が終わったのは12月というめちゃくちゃギリギリの時期だった。修論提出目前にも関わらず就職が決まっていない、同棲予定の彼女の転職活動のためにも早く決めなきゃいけないのに、決まらずに諦めていた。こりゃ10年目、修士課程4回生かな、と本気で考えていた。フリーターになっていた4留の友人も、来年もこの街で一緒にまた遊ぼうなと話していた。

4留と四条大宮にて。よく酒を片手に京都を彷徨きまくった。

 

しかし、そんな4留にとある企業を勧めたところ、まさかの内定がでた。彼も俺も驚いた。それは、4留既卒フリーターでも労働環境的にホワイトなところに内定ができたことと、この街から出ていくということ。完全に10年目を見据えていた自分にとって、彼の内定は寝耳に水であった。じゃあ俺も受けてみるよ、と受けたところ本当に自分も内定をもらえたのである。内定済みの広告代理店と、選考途中のコンサルを断り、俺も4留と同じ会社に行くことを決めた。正直なところ、前者2つの方が俺にとってはやりたいことが出来るし、給料も高くやる気があった。俺にとって、4留の内定した会社はどちらも劣るものの、圧倒的な残業時間の少なさに惹かれたのと、2013年から今までずっっっっっと一緒に遊び続けてきた友達と同じ会社って、めちゃくちゃ面白いんじゃないか。そんな理由で、同僚になった。ウケる。そして5月現在、4留とまさかの同じ勤務地になった。ここまで同じだと腐れ縁がすぎる。

 

 

2022年2月末、4留は既卒ということもあり1ヶ月早く、東京で働くことになった。彼がこの街を出る前に、「俺の後ろ(バイク)に乗って下道で京都から東京まで行こや。」と誘ってきた。実は彼とは、2014年の大学1回生の春休みのときに、自転車で京都から東京まで3泊4日で走破したことがある。あの頃を懐かしむつもりで、この街の思い出を語りながら、一緒に行くことにした。

出発日、自分の部屋からの景色。めちゃくちゃ天気が良かった。

 

4留が自分の家を引き払い、おそらく何百回も訪れた俺の家に泊まり、翌朝出発した。Googleマップでルートを調べている最中に、彼がマップ上からこの街の家のピンを外し、東京の新居につけたとき、とても寂しく感じた。あれだけ退屈に感じていたこの街とはもう、終わりなんだ。東京へ向かう道中は感傷に浸るかと思ったらあまりにも風が強く、何度か死にかけてそれどころではなかった。箱根峠を登る直前、俺は彼に「次はいつ京都に帰って来るんやっけ?」と聞いた。これを聞いた当時の俺はあまりの疲労困憊状態で、二人で東京までの往復バイク旅をしていると勘違いをしてしまった。「バカおめぇ、俺はいま帰ってんだよ、まだ見ぬ東京の家にな。」と、笑いながら返された。

4留とよくテスト勉強をしにきていた四条烏丸のマックが閉店していた。それだけではなく、飲み会終わりや時間の待ち合わせなどにもよく使っていた。ここはもはやもう一つのキャンパスだった。調べたところ、俺が京都に来た2013年に開店し、2022年2月で閉店したらしい。この店と全く同じ時間を、ともに歩んできたんだな。そろそろお前も次の街に行けよ、と言われている気がした。

 

京都から出発して20時間が経過する頃、平日の早朝頃に東京に入った。東京に入った瞬間、交通量が激増してきた。みんなが活動を始める時間である。国道1号線、五反田から高層ビルが急増し、三田を抜けると東京タワーが眼前に飛び込み、皇居から丸の内を通り、日本橋の国道1号線の起点にたどり着いた。2014年の春休み、二人で自転車でこの地にたどり着いたときはとてつもない達成感でいっぱいだった。しかし、2022年の2月下旬の俺たちは、疲労感と、これからこの大都会東京に住むのかという不安に駆られ、なんとも言えない気持ちだった。この日を境に、残り約1ヶ月の京都の日々が急に愛おしく、寂しく思えるようになった。

 

 

京都に帰り、大学院の同期や先輩とご飯やら銭湯に何度も行った。俺も同期も、4月から東京で働くことが決まっていた。そんな同期も、京都での残りの生活の日々が惜しく思えていたようだった。俺は同期に何度も似たような質問をした。なんでこんなに京都が好きなのに、離れなきゃいけないんだろう。同期は「京都は今の僕達にとってはスシローと同じっす。寿司はおいしいけど毎日それだと飽きませんか。それに、ネタの種類もほぼ固定されてますし。」と、答えてくれた。ちょうど五条通のスシローの目の前を二人で通った時に言われたものだから、とても印象深く、今でも覚えている。

月が綺麗な日は、しばらく見上げていたな。

 

3月30日の新幹線乗車直前に話を戻す。新幹線に乗った俺は進行方向左手の、京阪七条の鴨川が見えた瞬間、涙が出てきてしまった。それを一緒に乗っている彼女に悟られないように、俺は爆睡した。起きたら新横浜を出発するくらいだった。

京阪七条の鴨川。


そして品川に着いたとき、ひどく不安な気持ちで降りた。もう京都には帰れない、本当にこの新しい街、東京でやっていけるのだろうか。俺の都合で仕事を辞めさせ、地元の京都から東京に連れてきた彼女も心配だらけであろう。いろんな感情を抱えながらエスカレーターを上り、彼女の方を振り向いたら、そんな不安だらけの表情の俺を見て、笑ってくれた。このときの彼女の表情と、自分の気持ちは一生忘れないだろう。

 

 

――――

 

 

そして東京に来てちょうど1ヶ月が過ぎた。

3月30日に京都から東京に引っ越したとは言え、それは本当の最後ではなかった。本当に最後の京都は、1週間前の4月24日だった。

 

 

賃貸マンションの契約解除をしくじってしまったせいで、解約が4月の下旬になってしまったのである。だから3月30日は、「ま、どうせ来月にまた京都くるし」という気持ちだったこともあり、本当のお別れではなかった。

 

 

解約前日の4月23日、最後の京都の家に帰る前日は、全く気分があがらなかった。

というのも、東京にきてから、まだ社会人生活に慣れず、職場でも全くうまくやっていけず孤立しており、京都のことを思い出すと今の生活とのギャップが激し過ぎて、涙が止まらなくなっていた。

 

 

最寄りのJRの駅で京都行きの新幹線切符を買った瞬間から、涙腺が緩み始めていた。そして、品川から新幹線に乗った瞬間に、自分が愛して止まない旅ソング「いい日旅立ち」が流れて、熱海あたりまでずっと泣いてしまっていた。ああ、これが本当に、最後なんだなあと。



 

京都に着いたら、実は東京での社会人生活は全て壮大なフィクションで、その日からいつも通りの生活が始まりそうな気がした。いつものように昼過ぎに起床し、お気に入りのパン屋に寄り、自転車で今出川通りを駆け抜け、鴨川デルタの美しさに一息つき、研究室に行き本を読み、先輩や同期と百万遍のご飯屋に行き、ああでもない、こうでもない話をし、銭湯に行き整い、帰路につく。そんな、当時はあたりまえだった、今では夢のような生活が、東京に来てから日が浅いゆえに、まだ返って来るんじゃないかと、本気で思えそうだった。

 

 

米原を通過し、大津の瀬田の唐橋を過ぎトンネルに入ると、山科が見えてくる。そこから山科のトンネルを超えると、そこには9年間過ごしていた京都の街並が飛び込んでくる。そして、京阪七条の鴨川が見えた瞬間、また涙があふれてきてしまった。いまの自分には、まだかつてのこの街を直視できるほどの精神状態には程遠かった。

 

 

京都の夜を迎えた。毎日見飽きていたはずの京阪出町柳駅がやけに新鮮に感じられながらも、鴨川デルタに向かう。新歓の時期ということもあり、デルタには青色のビニールシートが敷かれ、サークルごとに盛り上がっていた。ああ、なんて素晴らしい光景なのだろう。これから京都で楽しい大学生活を過ごす新一回生たちの裏で、俺はひとり水面に映る自分の顔を見つめ、この街とお別れすることが出来るのだろうかと、また不安になった。その後、大学院の先輩と酒を片手に京都御所から木屋町まで闊歩し、深夜ラーメンを食べ、解散したあと、物がなに一つない、声がやけに響く家に帰ってきた。この何もない、最後の部屋で、本当は何かを書こうとしたけど、いつものようにすぐ寝てしまった。

夜の鴨川デルタ。エモい。

 

そして翌日、4月24日。9年間過ごしてきたこの部屋の最後の日。解約業者が来る前に、たくさんの写真と、動画と、パノラマ写真と、自撮りと…、なにか少しでもいい、この部屋のことを、とにかく記憶したくて、なんでもかんでも写真フォルダに突っ込んだ。

 

 

そして、ついに業者がやってきた。「2525さん、ずいぶん長く住みましたねえ。学生の中では断トツで一番長かったですよ(笑)」と、笑いながら話してくれたが、もう自分は色んな感情が大渋滞していて、あまりうまく答えられなかった。そして最後の家を出る瞬間、この部屋での9年間の思い出が走馬灯のようによぎった。

 

 

2013年9月、金閣寺近くに借りた初めての家はあまりにも住環境が悪く、3か月で引っ越した。その引っ越し先がこの家。そういえばこの家の引っ越しは、友人二人に手伝ってもらった。一人にはマットレスを敷くためのすのこを、金閣寺から堀川まで徒歩で運ばせた。当時はその姿にめちゃくちゃ大爆笑したっけ。ごめんな。引っ越した翌日、晴明神社のあたりでお祭りがやっていて屋台が出ていたことも覚えている。ああ、自分はここに住むんだ、最高だなという感情の高まりがあった。12月には地元の友達がたくさん遊びに来てくれた。せっかく京都に来ているのに、部屋であまちゃんが放送されていてずっと見てたっけ。

引っ越し初日の部屋。まさかここから9年も住むとは。

 

2014年、初めてこの家でたこぱをした。バドミントンサークルと自転車サークルの仲良い友達たちと。このたこぱのために買ったたこ焼き機、実は2022年まで使ってたんだよな。バドミントンサークルの友達が来たときは、当時のメンバーはほとんどが女子で、うちに来たときに、調味料しか家にないやんけ笑、と笑われたな。あと5月かな、友達の紹介で出来た彼女が初めてこの家に来たときは本当ドキドキしたな。7月には当時働いていた大学の不動産紹介バイトの冊子に自分の家が載って、ちょっと嬉しかったな。

 

 

2015年、3回生か。とにかく俺のこの家でテイルズをやってた気がする。あと桃鉄かな。おかげで単位が吹き飛びに吹き飛びまくったけど、あのだらだらした時間、夜中にファミマで酒の買い出しに行ったときの外の空気の気持ちよさ、徹夜のまま松屋の朝食を食べに行き、そのまま大学に行かず家に帰り寝た、あのどうしようもなく怠惰な時間、最高だった。

ああ、家関係のことで言えば、この夏にバドミントンサークルの合宿の企画係やったくせに、大寝坊かまして、気づけば大型バスが俺の家の前に止まってたな。後輩にはめちゃくちゃ申し訳なかったけど、社長出勤みたいでおもしろかったな。いい思い出すぎる。

 

 

2016年、4回生。みんな就活やら進路で頑張ってる中、4留と1留した友達の3人で遊び倒してたな。この辺から、俺の家にきて夜通し色んなこと語ったりすることが増えた気がするな。将来の話、恋愛の話、社会の話、、、大学生って感じだったな。ちょうどこの年にポケモンGOがブームになって、そういえば俺の家からは一歩も動かずに、レアポケモンのミニリュウが捕まえられること、ポケストップが回せるということで神の家だともてはやされていた。

 

 

2017年、5回生。この頃は色んな活動してたな、1か月間実家に帰り東京で就活してみたり、西宮北口に週6で通ったり。ちょっとこの家のこと、放置することが多かったかな。でも、そんな遠征した後に家に帰ってくるたびに、この家いいな~~って思ったし、実家より居心地が良くなってきた時期だったな。

 

 

2018年、6回生。大学院受験の関係で、もしかしたらこの家は今年で最後かもしれないと思ったな。でも結果的に、京都に残ることになった。この家が引き留めてくれたのだろうか。1個下の後輩と銭湯+トリキビールをよくやっていたな。

これは9月にとてつもない台風が関西に上陸した時の部屋からの写真。

 

2019年、修士1回生。大学が変わったし、一瞬引っ越すか考えたけど、自転車で15分くらいで通えるので、やめた。恐らく学生生活の中で最も荒れていた時期。研究まったくうまくいかない、異性関係もうまくいかない、友人とも絶縁レベルの喧嘩したり、マッチングアプリにのめり込みすぎて腐ってたな。でもそんなどんな時の俺でも、この家はいつも通り受け入れてくれたな。

11月、玄関から見える黄昏時の景色。この玄関の小窓に安っぽいステンドグラスのシールを貼り付けていた。そこから映し出される夕暮れの景色はとても好きだった。

 

2020年、修士2回生。感染症大流行。家のすぐ近くにある一条戻り橋や晴明神社、二条城から人がいなくなって、こんなにも世界が変わってしまったんだと痛感させられた。

8月、夏の朝焼け。
 

 

2021年、修士3回生。この家がラストになるかならないか、最後の方まで分からなかったけど、結局ラストになったね。よく見守ってくれましたわ。ありがとう。

今年の冬は雪がたくさん降ったね。

 

 

そして最後に家を出たときは、不思議とさっぱりとした気持ちだった。タクシーの運ちゃんに、実は今日で京都去るんですという話をし、盛り上がった。もう大丈夫、昨日あんだけ泣いたし、帰りの新幹線では泣かないだろうなと思ったら、行きよりめちゃくちゃ泣いてしまった。2~3年分の涙を、昨日と今日で流したと思う。やっぱり9年間という月日は、あまりにも長く、そして京都を出てから1ヶ月程度という短い期間ということもあり、まだまだ「過去」にはできなかった。

部屋を出る直前、最後の写真。9年間見てきた景色も、本当に最後。

いまは毎日、自分の部屋が賃貸サイトで契約されていないかを確認している。まだ未練たらたら。でも、大学院の同期も言ってたように、自分がたくさんの思い出を作ってきた京都生活の部屋を、新しい誰かが引き継ぎ、またあの部屋で京都が始まると思うと、なんだか嬉しい気分になる。ありがとう、京都。本当に、最高の9年間の学生生活を送らせてもらった。そして、この部屋で京都生活を始めるまだ見ぬ誰かへ、ようこそ京都へ。最高に楽しい生活の始まり、応援しています。

*5月13日現在、自分の元の部屋はどうやら契約されたようだ。完全にこの記事のタイトルの通りになる。寂しくないと言えば嘘になる。物や場所に対する執着が強い自分にとっては尚更である。あ、これは言わせて欲しい。俺が住んでいた時より家賃が1万円も安くなってるの、羨ましすぎるんだが、、笑


そして、さようなら、京都。
また絶対、帰ってくるからな。

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