祖父の自伝(18)〜助教論と三河大地震
私の祖父
ぶどう狩りのマルタ園初代園主、
中根武雄が生前書き残した自伝です。
時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。
第三部 軍隊生活と青年学校
青年学校 そのニ
助教論と三河大地震
戦争は日増しに厳しさを増し
国民皆兵の時が来た。
男子は補充兵から国民兵まで、
国民服の脚半巻きの姿で軍事教練を習う、又婦人会は白いエプロンに国防婦人会の襷掛け防空頭巾にモンペイ姿。防災竹槍の訓練を習う。
その担当を責任づけられ、毎日のように出勤する様になって来た。
ある日、校長先生より毎日出校しても指導員では手当である。職員になれば給料になる。もし招集が来れば留守家族に給料がいくから心置きなく働く事ができる。今、職員も不足している。是非と進められた。
招集は必ず来る。覚悟はせねばならないが、先生とはなぁと迷った。再三の進めに受けてしまった。
しばらくして、安城の青年学校に(師範)講習生として通う事になった。
岡崎から小林曹長と二人で東海道を自転車で往復した。
時折り空襲警報で遅刻もあった。又、教育途中帰ったこともある。松並木に隠れB29の行くのを待ったり、思い出の通学であった。
自分の予期した農業とは全く反対の岸に泳ぎ着いてしまった。
世の流れは逆らう事も出来ず、言葉通りの給料取りとなった。
昭和19年12月西三河地方に大地震があった。震源地は三ヶ根山だと言う。
無気味な一週間。余震は続く。
恐怖のどん底にさ迷い心配で夜は屋外で寝ていると話す人も少なくなかった。
どうなるかと心配をしたが大事に至らずに終わり、不幸中の幸いであったと胸を撫でおろす。
地震がおさまると岩津青年学校に指揮者一名、生徒十名の復興作業の救援隊の割り当てがきた。
直ちに宿泊地西尾市公会堂に集まる。
色々と説明を聞き身支度を致し名鉄電車にて羅災地上横須賀の救援に向かう。途中火葬場の側を通過した。
その広場を狭しと焼いた灰の山。
無惨に窓越しに見えた。
あぁ多くの方が亡くなられたのだなぁ、気の毒な事だと一人念仏を唱え手を合わせずにはおれなかった。
現場について又びっくり。見るも無惨で目も当てられない。
家屋が全壊し下敷きになり、鴨居を切って出しその傍らに寝ている人。足を折ったり、手を折ったりし片隅で悲鳴の声。あちらからも、こちらからも地獄か修羅道か全く表現の仕様のない様相でした。
行き合う人も途方に暮れ言葉の掛けようもなかった。作業は通行出来るよう道路の片付けから始める。リヤカーてま運くらいではなかなか容易なことではない。当時とすれば最高の道具であった。
吉良の仁吉の菩提寺源徳寺の寺門も全壊し、ここにも作業に来た記憶がある。その後あちこちと10日ほどお手伝いを致し全員無事に帰校した。
丁度2年ほど前にこの菩提寺に参拝した事がある。今、参門に立って昔を思うと現実にあの様なことがあったのか、自分が自分を疑い夢のような氣がした。
その後皆さんの努力ご健闘は実に立派なものです。さぞかし人に言えない苦労もあった事でしょう。
途中二十年七月招集。
九月五日招集解除となり九月十日より学校に復帰する。
戦争に負け無条件降伏である。
兵隊はもういらない。
天と地の変わり様である。
ましてや俺はもういらない。
性にも合わない。
戦争の二字により寄り道をしたのだ。
自由の身となって、農業をやろうと心に誓って辞表を出した。
山本校長先生は、年度末までどうだと頼まれたが、やはり農業は春先が大事である。わがままを許して頂き12月末を最後に学校の校門を後にした。
青春時代を兵隊で揉まれ親しまれ愛されて来た。育てていただいた多くの皆さんに心の底からありがとうと申し上げます。
今から第二の人生の門出であります。
相変わらずのご指導と御援助を賜りますようお祈り申し上げつつ
第一の人生を終わる。
※東南海地震 昭和19年12月7日
三河大地震 昭和20年1月13日
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