祖父の自伝(16)〜師団勤務と召集解除
私の祖父
ぶどう狩りのマルタ園初代園主、中根武雄が生前書き残した自伝です。
時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。
第三部 軍隊生活と青年学校
軍隊生活 その九
師団勤務と招集解除
1月30日師団司令部の勤務を命ぜられた。第三師団管内の各測候所より飛行機の飛来状況が刻一刻と通報されてくる。それを図の上に時刻、場所、機種などを明細に記入して行動を追跡していく情報部勤務であった。
特に不明機の場合厳しく追跡をし不審と思われる時は直ちに上司に報告をする。
不寝番勤務はなく毎日通勤出張であった。2ヶ月程の勤務であったが大きく取り上げるような飛行機もなく無事に終わった。
待ちに待った除隊の命令が遂に出た。大歓声が上がる。
昭和17年3月31日朝8時
全員営庭に集合。
満期除隊祝賀式が挙行され、連隊長島居中佐殿より感謝の挨拶があった。
思えば俺は昨年9月に満期除隊同日招集予備兵に編入となり、本日は召集解除である。ほかの同年兵183名は満期除隊の命令であった。
数多くの戦友はいまだ戦地で戦っている。又戦死した戦友もある。その中を無事にひと足先にふるさと帰りとは、今の世でこれ以上の嬉しさがほかにあるでしょうか。
感慨無量である。
祝杯を交わしながら今度又会う日を誓い合った。
お世話になった上官にお礼を申し上げ後輩に見送られて、入営以来2年11ヶ月で営門を後にした。
色々と問題はあったが、この成績で帰郷出来たことは本当に嬉しい。夢のようである。
亡き父親の守り、母親が毎日欠かさずに陰膳を飾り通してくれた心が届いたのだ。
ありがとう。
一人満足しほほが初めてゆるんだ。
男の本分は軍人でありその成績は男一代の成績であったと言っても過言ではない軍人の時代であった。
名鉄電車で岩津駅に着いた。
部落の人は勿論のこと、付近の人、あの人この人懐かしい人でいっぱい。揺れ動く旗の波目を見張る程に盛大な出迎えであった。
帰還の挨拶も涙で曇った。
岩津からの道中も話に花が咲き、軍歌にも囲まれ6キロの道も短く感じ氏神様に到着。村人から何より無事で良かった良かったの握手ぜめ。野も山も冬を耐え忍び、夏に向かって新しく伸びようとしている大自然の姿こそ、俺を待ち将来を約束するかに写った。
しばらくして帰還の報告会が始まる。区長さんの祝辞にはじまり各団課長の挨拶など1時間ほどで終わり無事に家に着く。玄関に入るや老祖父母が笑顔で迎えてくれた。
双方80歳を越している。
俺の帰る迄は病気で到底むつかしいと叔父から聞いていただけに嬉しく又格別であった。
「おじいさんおばあさん元気で良かったのぅ」
と言うと
「武が来るまでは死んでも死にきれなかった」
あの一言胸をえぐられたような気がした。
夜は親戚知人などお集まり願って祝宴。戦争の最中で充分な事は出来ない。心ばかりのしるしであったが満足げに夜遅くまで楽しんでいただけた。
俺も自分の責任を果たしやっとの事で軍服を脱ぎ捨て着物に変えた時、始めて自分になったような気がした。この心境は計り知れないものがある。
本当に嬉しい。皆さんありがとうございました。厚くお礼申し上げます。
家に帰って3日後4月3日B29がはじめて本土に上陸。
名古屋市役所隣馬草倉庫に焼夷弾を落とした。これがもう少し早かったら帰れなかったかもしれない。
運のいいやつだなぁ。
2年11ヶ月を振り返って見た時本当に運が付いていた。
軍隊でなく運隊であった。
この嬉しさを皆さんのお陰と喜びなんらかの形で返さなくては申し訳ないと心ひそかに感じ覚悟を新たにした。
青年学校 その一へ続く
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