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祖父の自伝(17)〜鍛錬馬と青年学校指導員

私の祖父
ぶどう狩りのマルタ園初代園主、中根武雄が生前書き残した自伝です。

時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。

第三部 軍隊生活と青年学校

青年学校 その一
鍛錬馬と青年学校指導員

昭和17年3月31日招集解除

さあ今から好きな農業を真剣に乗り組む覚悟である夢を見て帰って来た。

時は非常時で、若者はいつかは徴用(軍事工場)で行かねばならない。
たまたま岩津町役場の兵事係から
内藤指導員が、都合により引退されるに付き後任として、是非鍛錬馬の指導をやってくれないか。
県職だから徴用も来ないかもしれないと話された。
家の人に相談し、徴用よりいいだろうと承諾することにした。

早速にと7月より勤めることになった。

受け持ち区域は、額田郡の岩津町と
常磐相、碧海郡の矢作町と上郷相のニ町ニ相。軍用保護馬10頭を毎日2回岩津尋常高等小学校の校庭に、集合軍用として使用出来る様に調教訓練するを目的とする。

馬主が素人で、手綱さばきが出来ないので、馬が号令通りに動かない。
傍に行き、丁寧に教えるのだが、
馬車引のおじさんはどうしようもないと言ってばかりおれない。
教練の結果の工程出席等日報を出さなくてはならない。
これには全く閉口した。

学校の出勤は月2回。
後は農業に励むことが出来るはずだが、計画通りにはなかなか進まず、時局柄やむをえなかった。

18年の春。
兵事係内田さんから招集で、皆んな行き、人不足でどうしようもない。
 ぜひ青年学校の指導員を兼ね、教練主任を受けて欲しいと再三頼まれた。

学歴もない。
責任が重すぎると断ったが、蛇に狙われたカエルで聞いてもらえず、遂に受けることになり4月に就任する。


青年学校は、尋常小学校卒業して、兵隊に行くまでの男子は、本科4年と研究科2年である。
女子は本科4年のみ。
研究科と総括的な教練を担当することになった。

当時、町立岩津青年学校は、岩津天満宮一の鳥居左の広場(岩津小学校跡地)にあった。

職員は校長一、教諭三 内男一女ニ、教練指導員五名であった。

後になって狭く岩津小学校に
移り変わった。

青年学校の生徒は、兵隊そのままの教育で良かったが、時折り補充兵国民兵の教育があったが、軍隊とは全く違う。地方に出れば地方に添う教えでないと陰口が多いようであった。

心配した一年も無事に過ぎて安堵の気持ちいっぱいでうれしかった。

青年学校そのニへ続きます。















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