うえすぎくんの そういうところ Season.6 次への一歩編 『第83話 地獄絵図』
第83話 地獄絵図
すっかり通い慣れた道をいつもと同じ時間に同じ景色を見ながら兄妹仲良く歩く。駅の改札を出て学校まで約三百メートルの間にユヅハやたくみんと合流して一緒に校門をくぐるのが最近の流れになっている。
昨日はあれから彼女の熱も上がらず、両師匠が帰宅されたタイミングで我々も失礼しようとしたところ『沢山のお土産があるから』とのことで母ちゃんまで迎えに行ってもらえて楽しい時間を過ごした感じ。道場を構えていると外泊なんてなかなか出来ないからつい嬉しくなってしまうのはわかるけれど、お土産屋さんが開けそうなくらいの量と言えば何となく想像がつくだろうか。加えて『娘の面倒を見てくれた』とあれもこれも戴いて、帰った時にはテーブルの上がまるで『あたしたちが旅行に行ってきた』みたいになっていた。
何はともあれ姫嶋家にいた自分たちだけではなく、たくみんもすごく頑張ってくれたのだから素直に今日くらいは褒めてあげようなんて心持ちでユヅハと三人校門の前であのデカい男を待っているのだけれど、一向に現れない。
「たくみ君、来ないね。何か聞いてる?」
「ううん。家に帰ってからも特別これといって電話があったとかそういうのもなく、本当にどうしちゃったんだろうね」
「チャイムが鳴り始めたから教室に行きましょ。一時間目が終わった時に隣のクラスを見に行くから、コハクやりゅうくんも何かわかったら教えて」
授業の合間に二組を覗きに行くもたくみんは来ておらず、ミリリンに話を聞いても
「休んでいるみたいだけれど、理由までは知らない」
とのことだった。お昼ご飯の時も部活時間も結局姿を現さず、道場には来るだろうとタカを括っていたのだけれど、結局終日彼の姿を見ることはなかった。
翌朝、改札を出て歩きながらユヅハと合流。今日も休みなんだろうかなどと話しながら三人で校門に向かっていると、一台の軽自動車の前でご婦人が困った表情で辺りをキョロキョロしている様子が我々の目に入った。状況から左側前輪のタイヤが側溝にはまってしまい出られなくなってしまい、運転席から降りてきて困っているのだろうと推測できる。体の大きな男子学生の集団でも居れば声を掛けやすいのかもしれないが、あいにく目の前に広がる景色にそれらしいものはおらず、女子生徒ばかりだ。
「兄ちゃん、ユヅハ、助けようよ」
「そうね。私たちならあれくらい持ち上げられそうだわ」
「うん、困っている時はお互い様だよね」
近寄って声を掛けるとやはりそういうことだったみたいで、荷物を置いて三人力を合わせてみるも車はかすかに動きはするものの、脱出パンパカパーンとはなかなかいかない。どうやら細い側溝にガッチリとはまってしまっているみたいで、三人が力を合わしてもガリガリと音を立てて完全には持ち上がらない。呼吸と掛け声を合わせて三回目のトライを試みようとしたあたしの肩にポンと手が掛かり、聞き覚えのある声。
「オレがやるからバッグ持っててくれ」
大きな男子生徒から渡されたバッグは何が入っているんだというくらい重く、軽々と渡してきたもののこちらは地面に着けないように両手で持っているという光景。
我々を一歩下がらせて車のフロント部分に手を掛け、せいぜい揺らすことくらいしかできなかった自分たちとは対照的に、車の両輪が完全に浮いてしまうような持ち上げ方で見事に脱出させた。
「このタイプの車はトランクの底を捲るとスペアタイヤがあると思いますし、側面には工具があるはずです。恐らく溝に落ちた時だとは思いますがパンクして走れない状態ですので、十五分ほどもらえればとりあえずガソリンスタンドに行けるようにはできます。やっちゃいますね」
言うが早いかトランクを開けて工具類と一緒に黄色いスペアタイヤを引っ張り出し、手際よくタイヤ交換に着手する。
「みんな、おはよう。こんな感じだって先生に伝えておいてくれると助かる。バッグは教室の机の上に置いといてくれ」
成果は出なかったものの助力した我々に頭を下げられるご婦人と男子を置いて、我々は学校へと歩を進めた。
「にいちゃん、すまないけどこのバッグ持ってくれないか……あたしにはちょっと重すぎるー」
「いいよ、僕が二組まで持って行くよ。登下校時も筋トレしているなんてさすがだね」
「私もいま気付いたけれど彼、左腕も使って車持ち上げていたわよね?」
「うん、固定外れたんだね。本当に良かった! しかし一人で持ち上げちゃうってすごい筋力だね」
「あたしをリンゴみたいに持ち上げたからね、たくみんは」
荷物を教室に届けた足で職員室に行き、二組の先生に事情を伝えて一時間目の放課、三人の足は自然と二組に向かって集まった。
「ああ、昨日は一日病院だったんだ。後遺症の有無とか可動域の確認とか綿密に検査してもらって、やっと『稽古してもいい』って許可が下りたからこれで晴れて道着に袖を通せるよ。ずっと筋トレばかりやってきたから、今度は別のところを怪我しないように気を付けなきゃだな」
「そっかそっか、何はともあれ名誉の勲章が外れてよかったね」
「ありがとう、りゅうせい。ただ、ずっと筋トレしてたせいで制服のシャツがパツンパツンでさ。腕もだけど胸周りまでデカくなっちまったみたいだ」
「あー、たくみんのシャツ。前のボタン二個ないじゃん!」
「さっき持ち上げたときに力入っちゃって弾け飛んじまったんだろうな。女子なら気になるかもしれないけど、男だから別になんともないよ」
「今日はお休みしていた間の柔道感覚を一緒に確かめましょう。柔軟は入念に、痛みが出ないかどうかも一緒にチェックしましょ」
「ありがとう、姫嶋さん。体はもう大丈夫なのか?」
「みんなが助けてくれたからね、本当にありがとう。そういえばコハクから聞いたわよ、片腕でこの子を持ち上げちゃったんだって?」
「毎日ずっと筋トレしてきたからな、女の子一人くらいどうってことないさ。大事に至らなくて本当に良かった、頑張ったのはスカート姿なのに窓までよじ登ったコハクさんだよ」
「いやいや、あんなの朝飯前さ。やっぱり一番のファインプレイはリンゴやスポーツドリンク以外にも風邪薬とかいろいろもってきてくれた、たくみんだよ」
「たくみ君、本当にありがとう。あなたのおかげで体は元気になったしコハクからいろいろ聞けたし、まんざら辛いだけの風邪ではなかったわ」
「ん? コハクさん?」
「ほら、次の授業始まっちゃうからみんな解散! たくみん、じゃあね。また部活で!」
授業こそ平穏無事に終わったものの、この日のたくみんはちょっと怖いくらいだった。甲村師範は彼がいない間、ずっと男子柔道部をほったからかしであたしやユヅハに付きっきり。こんな感じだったから男子は無法地帯みたいになっちゃってて、ろくに稽古もせず畳の上で笑い転げたりする日々が続いていたんだけれど、たくみん復帰の初日に沈黙していた爆弾はとうとう爆発した。
「お? 香中が今日から復帰だってよ」
「ヨワヨワ香中、久しぶりに俺たちの稽古に付き合ってくれよー」
ガラの悪そうな二年生が詰め寄る中で
「今日は柔軟とストレッチを姫嶋さんに診てもらうんで、部活が終わる十五分前になったらまとめて相手にしてやる。それまで体を温めておけ」
一年生からこんなことを言われちゃったもんだから、そこからは先輩たちからの罵詈雑言がすごいのなんのって。対して彼は冷静そのもので、カリカリしているユヅハに対して
「姫嶋さん、あんなサルどもに腹を立てるなんてらしくないですよ。ヤツラにはリハビリ代わりに稽古台になってもらうので、大丈夫です。このあと道場でもしっかり暴れたいので、引き続き可動域チェックお願いします」
と逆になだめる始末。そして運命の十五分前から始まったそれは怒りや憎しみといったものではなく、純粋に『稽古ができてうれしい』という感情がこちらにまで伝わってくる様な美しい柔道だった。
ただ……車を一人で持ち上げてしまった彼に投げられた先輩たちの様子は、対照的に地獄絵図だった。
重度のうつ病を経験し、立ち直った今発信できることがあります。サポートして戴けましたら子供達の育成に使わせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。