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うえすぎくんの そういうところ Season.6 次への一歩編 『第85話 色ボケジジイ!』

第85話 色ボケジジイ!


互いに腹ばいになり右手同士を座布団の上で組み合って、周囲には男女問わずヤンヤヤンヤの大歓声。

なんじゃこりゃ……

「よし、準備できた。ユヅハ、いつでもいいよ」

「それでは始めます。用意、はじめ!」

始まりの合図とともに開いている左手は強く拳を握り、師範の手を握り潰さんが如く全力で左に体を傾ける。一瞬にして額に浮き上がる汗が自分の必死さを物語っているが、周囲は先ほどまでの大歓声はどこへやら、まるで別の場所に来たかのように一転静まりかえった。

歯を食いしばってジリジリと座布団に向けて押し倒している自分に向けられるはずの声が、一人を除いては一切耳に入ってこない。

「たくみん、頑張れ! ほら、もう少し!」

明らかに自分が想像していたのとは違う展開が三つある。

・ 勝負は秒で決すると思っていた
・ 師範の顔がずっと笑っている
・ 残り二センチほどから『何か敷いているんじゃないか』くらい動かない

ここまで追い詰められて何とか保っているのかと思いきや、涼しげな表情で余裕綽々と言った様子。

(いやいや、おかしいだろ。こっちは全力フルパワーだっていうのに何だその余裕、しかも動きゃしないって完全に遊ばれてるとしか思えない)

「弟よ、筋肉の密度について教えてやる。さっき話した『水の力』に通ずるものがあるからよく聞いておけ。筋肉はデカけりゃいいというものでもないし、同じく力も強けりゃいいという問題でもない。平常時は穏やかな小波で万物に恵みをもたらし、ここぞという時に密度の濃い力を集約して発揮すればいい。老いぼれのこんな細い腕が密度の濃い筋肉だとしたら、この結果にも説明が付くじゃろう。はーん」

倒していた腕がジリジリと持ち上げられていく。疲れたり力を抜いているつもりは全くないのだが、海底噴火による地面の隆起が如く抗えない力によって下から持ち上げられるのだ。

「たくみん何やってんの、頑張れ!」

コハクさんや他の部員たちから盛大な声援を受けているのはわかっているのだけれど、押し込むどころか真逆の力に抵抗できない自分に腹が立つ。

「もう一つ教えてやろう、これも柔道の基本じゃ。大柄な外国人選手を相手になぜ小柄な日本人選手が引けを取らないばかりか、これだけ勝利を収めているのかわかるか? 日々の鍛錬や濃縮された力もあるが、背負い投げを例に出すならば……回転が小さく引き込む力が物理的に強いからじゃ。こんな風にの。はーん」

話し終わるか終わらないかのタイミングで角度にして百六十度くらいの優勢が一気にはじき返され、無慈悲にも座布団にオレの手は押し付けられてしまった。

「そこまで! 勝者、香中師範!」

姫嶋さんが右手を挙げて勝負結審したのと同時に柔道場の中には歓声が上がった。そしてなにより驚いたのは二年生男子たちが自分の周りに寄ってきて、様々なねぎらいの言葉を掛けてくれたことだ。

仰向けになり肩で息をしながらなかなか落ち着こうとしない呼吸に翻弄されている傍らで、余裕の表情を浮かべて見降ろしている師範がいる。

「オマエさんにトレーニングを命じたのはしなやかな筋肉の下地を作らせることと、細くなってしまった左腕に負担を抱えさせないようにする為じゃ。姫嶋を見てみい、あんなに細い女の腕にオマエは全く歯が立たんじゃろう?先ずはその右腕に見合うだけの左腕を作る、しなやかな筋肉に仕上げるのはそこからじゃ。そして今日から毎日十キロのランニングを欠かさず行うこと、以上じゃ。はーん」

「あ、ありがとうございました」

正座して深々と頭を下げながら、自分と姫嶋さんの違いについて瞬考する。

(力はオレの方が確実に上なのに振り回そうとしてもそれができない。物理的に握力が強いとかそういう力ではなく、圧縮された核融合みたいな力の凝縮体。それにスピードが加わるのだけれど、百メートルを走ったら確実にこちらの方が早いのに一歩踏み込む速度は彼女の方が格段に上……)

頭を上げて彼の目をじっと見据え、自分が出した答えをぶつけてみる。

「力は体幹、速度は瞬発力。『力点』ではなく『支点』と『作用点』が自分の課題であると愚考しましたが、ご教示お願いします」

胸の前で腕組みし、珍しく大きく目を見開いて普段険しい顔がニッコリ笑った。

「やはり勉強ができる奴はものわかりも早い。そしてオマエは努力家で自分に厳しい。文武両道とは昔からよく言ったものじゃ、間違っておらんよ。はーん」

「ありがとうございます、精進いたします」

「うむ。宴の後はちゃんと片付けて、これから姫嶋のところに行くんじゃろ? くれぐれも怪我に気をつけて鍛練してくるがよい。オーバーワークは禁物じゃぞ、香中」

いつも『弟』としか呼ばれなかった自分が初めて『香中』と呼んで戴けた。それだけでもこんなに嬉しく誇らしいのに、隣ではまたやり合っている。

「なんだよ、ちょっとくらい手加減してやったところでジジイなら教えられただろ? 女子が周りで見ているからって『師範すごーい』って良い格好したくなっちゃったのか? まったく大人げない、色ボケジジイ!」

「そんなんじゃないわい! 腕相撲を持ちかけてきたのはオマエじゃし、ヤツにはヤツなりの教え方というものがあるんじゃ。ちゃんと自分で答えを導き出せたんじゃからそれでいいじゃろうが!」

「あー。動揺している証拠に『はーん』を忘れてますけど?まだまだ修行が足りませんなぁ。ハーン!」

「やかましいわ! そういう生意気な口は、せめて姫嶋に勝ってから言え! はーん」

「言われなくても近いうちにユヅハを投げ飛ばしますけどー」

「ちょっとコハク、それは聞き捨てならないわね。このあと道場でやれるものならやってごらんなさいな」

「ああ、やってやるよ! 熱出してあたしに裸にされて隅々まで拭いてもらった人間がよくそんなこと言えたもんだ」

「ちょ……それとこれとは関係ないでしょ! あなたには武の精神が欠落しているみたいだから、徹底的に叩きこんであげるわ」

「えーん、ユヅハがいじめるー。怖いよ、たくみーん」

背中に隠れているコハクさんといい、目の前の師範や姫嶋さんといい、こんなに緩い空気感なのに自分は誰にも勝てていない。柔道が楽しいものだと心から思えた瞬間だった。

「ほら、閉めるからさっさと片付けんかい! 」

そう言いながらも自分で座布団を片付けている師範の姿を見て、コハクさんから信頼されている理由がちょっと分かった気がする。

さて。自分も一緒に掃除して、今日から本格的に姫嶋道場で稽古復帰だ。

#創作大賞2024#漫画原作部門

重度のうつ病を経験し、立ち直った今発信できることがあります。サポートして戴けましたら子供達の育成に使わせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。