ソシオニクス タイピングの設問と回答
14,575文字あるようです。ご興味ある向きに置かれましては、お時間のあるときにお読みください。性格類型論のうち、ソシオニクスにおけるタイプが精密に炙り出せるという設問が周囲で流行っているので、回答してみました。
From Over the Sea
前提
GEKIKARA(Socionics) : Fi-IEE(NC)
Quadra : Delta
Double Subtype : Normalizer-Creater
Normalizer : TiSi強化、Fi追加
Creater : FeNe強化、Se追加
MBTI : ENFP
Enneagram : TYPE4 wing5
Tritype : 468(4-6-8) "The Truth Teller"
1. 強化された主導Ne 2. 追加される創造Fi
4. 強化された脆弱Ti 3. 追加される規範Se
6. 動員Te 5. 強化された暗示Si
7. 無視Ni 8. 強化された証明Fe
不活性機能:Ne, Ti, Te, Ni
活性機能:Fi, Se, Si, Fe
高次元機能:Ne/Fe, Fi/Ni
低次元機能:Se/Te, Ti/Si
クアドラが重視する要素=自我および超イド:Te, Fi, Ne, Si
クアドラが軽視する要素=超自我およびイド:Fe, Ti, Se, Ni
本題
Te: 外向論理 (実践の論理)
仕事が対価を得る労働を意味する場合においては、その人を象徴する要素であり選択された立脚点であり、生活基盤。自己の生活および存立のために必要とされるもの。職業適性は、その業務への従事に際して障壁となる要素や理由の多寡によって判断される。
第一には定められた期限に間に合ったかどうか、遅れた場合、その遅れに見合う内容であるかどうかによって評価する。第二に、意図と内容が求められている事柄に対して一致しているかどうかによって評価する。
仕事の質とは、当人の内面と表層において一致が見られるかどうかと、定められた刻限や求められる品質との鬩(せめ)ぎ合いだと考えている。
何かを購入する際は、金額や用途に応じて傷の有無から評判の高さ低さまで、多岐にわたって判別する。
何をもってプロフェッショナルと見なすかという定義を整理しておきたい。私はこれを厳格・正確・俊敏といった性質を念頭に置いて答えようと思う。
①その部分では勝てないだろうから、参考にするのは程々にして、許される範囲でその部分は委譲したいと感じる
②上記の感情に基づき、別の事柄、例えば彼や彼女が得意としない部分において助力を図るか、活躍を狙う
③極力その人と敵対しない。彼や彼女の美質を認める立場を取り、主導権を「プロフェッショナル」に委ねる。
その仕事に愛着がある場合、手法を色々と試そうとする。その職場で絶対視されてきた方法に基盤を置いている場合、それが自分の資質に合わない可能性を検討する。自分と近い要素を持っていそうな人を観察したり、相談相手に選んだりする。
誰かの仕事ができない様子というのが視界に入ってきたことがあまりない。それほどの余裕があったことは少ないし、そもそも人は仕事ができないという状態を他者に見せたがらないように思う。私のような不穏分子に対しては、なおさら見せたがらないだろう。
そういう地道に積み上げるような機械的なことはさっぱり向いていないので、やらない。逃げると思う。考えたくもない。例えば、学校生活において宿題はいつも私の敵だった。倒すべき敵ではなく、勝てない敵だった。
Ti: 内向論理 (構造の論理)
あらゆる差別。あらゆる先入観。ありとあらゆる固定観念と、既成概念の集合。他者と自身の不当な同一視。あるべき自他境界の独善的な崩壊。いや、これだと具体例ではなく、むしろ抽象化してしまっているだろうか。
世間は昨今、矛盾の有無に固執することを論理的な振る舞いと勘違いしているように思う。整合性が取れるかどうかは確かに重要な視点だが、論理とはその論理(言語における空間)が内側でどれだけ破綻なく完結しているかどうかということだと思う。内面的に完結していない論理が表層的な衝突に耐えることなどそもそもありえない。
理論的と論理的の差異もそのあたりにある。先行理論や既出統計にただ基づいているのは理論的の範疇であり、論理はそうした理論や統計をむしろ超越しようとする。
論理はそもそも論破を目的としない。論考を目的とする。
階層構造とは、上と下とで状態や状況が原理的に異なる様子を意味する。もしこれを子供に説明するなら、水の循環や水の状態変化を用いて説明すると思う。水が空にある時は地上の水とは違って雲になるように、人もお金に恵まれているうちは群れたり離れたりしながら一点に留まることを知らないものだ……とでも言うかもしれない。
階層構造というのは単に構造であり、それに従うか従わないかという話ではない。強いられた階層、与えられた階層、勝ち取った階層に相応しい振る舞いを心掛けるかどうか、受け入れるかどうかという心構えの問題だと思う。なので、必ずしも従う必要はない。
そもそも構造など世界が勝手に寄越した枠組みなのだから、己が従えるつもりで生きていればいい。人はどうせ死ぬ。
①に対して
食器セットとスプーンは、包摂関係にあり、スプーンは分類として食器セットに包摂されている。食器セットが大分類であるため、洋食の文化圏にあれば食器セットと言われてスプーンを思い浮かべることは容易だが、スプーンと言われて食器セットを思い浮かべるにはいくらかの飛躍や俯瞰を要する。
逆にスプーンは食器セットに対して小分類であるため、例えば「さっきスプーンを使った」という表現だけで「恐らく何か流動体を食べたのだろう」という想像を働かせることができる。
非常に有益なことだと思う。世界とは理論や論理の集積であり、それを分析するためには氾濫した情報の奔流では太刀打ちできない。構造化し、整理することによって構造を上から俯瞰したり、構造と構造を横に飛躍したり往還したりすることが可能になる。
ある理論とある理論を結びつけたり、並べて考えたりする際に、構造化もしくは可視化ほど必要になることは無いと思う。ここで理論と言った部分に例えば経験という言葉を入れても差し支えはない。
言語思考者が用いる方法としては、言葉を視覚化することが一般的な手法だと思う。視覚思考者の多くは視覚化が脳内で即座に行われるため、この過程を重視しない傾向にある。
Se: 外向感覚 (意志の感覚)
見て取れるような威圧感を出す。視線や表情を固定したり、声色を低めたり高めたりする。敬語を外したり敬語を強めたりと、文体を操作する。また、服装に黒の割合を増やすことでモード感を演出したり、柄のうるさいものを着たりする。
当然ある。戦略の一環としては無言を貫くこともそうだし、無視や黙殺もそうだと思う。悪いもので言うと讒言や噂話、干渉など、枚挙に暇がない。
上に挙げた悪いものを除けば、戦略の一環というよりは所与の権利だと考えている。攻撃が正当化されるのは、向けられた敵意が敵意であると確定した場合だと思う。テリトリーの侵掠や占拠というのは、精神的な意味を含めれば日常茶飯事で、日々ひとつも起こらないことのほうが稀だと思う。
人は、都市部を普通に歩き回るだけでもお互いのパーソナルスペースを侵害あっている。そういう自覚のない馬鹿ばかりが、三人横並びで歩いたり往来の中央でいきなり踵を返したりしている。同一の場所に無関係な人間が多ければ多いほど、そうした確執や独占は発生しやすい。
発言すること。発言に不用意な余白を設けないこと。正当性や能力を表明し、主張すること。自身の周囲よりもまず国家の法律に照らして状況を分析すること。
相手の立場や対立に至るまでの経緯を徹底的に分析する。分析したのち、基本的に関係を遮断する。相手に対して友誼の情や思慕の情がある限りは、分析をもとに対話に持ち込む。情がない場合、分析によって得られた相手のエゴイズムを突き付けてその精神を叩き潰す。
しばしば強い人間だと言われるしよく怖がられてもいるが、実際には虚勢を張っているだけで関係の浅い他人が思うようには強くはない。むしろ弱者の部類に入ると思っている。ただ、張った虚勢が虚勢に見えないような蓄積は多いと認識している。
優しさを根として誤解を防ぎたいあまり過剰に防衛的なのだろうというのは、よくLIEから指摘されている。
Si: 内向感覚 (経験の感覚)
不易流行という言葉からも見て取れるように、美というものは可変でありながら不変の側面も有するものだと思う。そのため美に普遍性などないと思いたいが、蓄積と変遷のなかで洗練された美というものはやはり存在する。私の美に対する理解は、深いという点において世間一般とは隔絶している。
具体的には、他者よりもその審美的な基準を己の内面に負っている部分が多いという点が異なっていると思う。
自然や宇宙というのはそもそも構造によって象られているものであり、造形美や構造美と言うように、人の自我はそこに神秘を見出だすようになっている。
よって、いかなる美もミクロ的な視点では単純化された共通のパターンに基づいて成り立っていると言えるが、個人の生涯や感性は独創性に満ちて固有であるため、そうしたパターンに回収されない美的感覚というのも同様にありうると思う。
美が不易流行であるとしても文化や民族はこれまで変遷を繰り返してきた。その区切りごとに古典的な美というのは存在すると思う。日本で言うならそれは、天平文化と平安文化と室町文化と江戸文化、そして現代文化に大別されるだろうか。
身辺に置いたり自身で取り扱ったりする道具の趣味のよさや機能美によって居心地と物質的な豊かさを作り出している。他の人々は、しばしばそれを高く評価しているし、妥当だと思う。交友関係にもそういうセンスが高い人が多い。というか、そういう側面が強くないと仲が深まらない。ただ、一人で生きていると雑然とした環境になりやすい。
形状と材質に対する好みと経験、また色彩感覚と柄の趣味によって服を選んでいる。流行は部分的には取り入れるがわざわざ合わせはしない。無理に流行に寄せると、必ず不調和や違和感に苛まれるのがわかっている。
その体型の持つ長所に合わせて形状を選ぶ。短所とされている特徴を隠すことにやたらと固執しない。
空間認識能力があまり高くないため、気分に依存することが多い。色合いにばかり固執してしまう側面が強いように思う。大きさを測るのも億劫だし、買った家具を置く場所についても実用性や動線としてよく失敗している。なので、得意な人に主導権を預ける。
ものを選ぶのは上手くても配置することまで上手いとは限らないなということを、自分に対して感じる。
Fe: 外向感情 (情動の倫理)
見せなければ付け込まれないかもしれないが、見せないことで付け込まれる可能性を懸念してしまう。感情を見せないためには、相応の強さというか明確な武器が必要になる。
なのでどちらかというと感情を見せない性質のほうが社会とは相容れないのではないだろうか。ただ、往々にして感情を見せない人というのは人生経験が豊富で、精神年齢が高い傾向にある。
不適切な感情表現というのは、私が思うに自他境界を取り違えることを意味する。自分が思っていることの主語に相手を据えて人格を否定してみたり、相手の思いに対する不一致や不和をわざわざ継続的に隠蔽するようなことだと思う。表現や分析(いわば言語化)を半ば無条件に放棄すること、外部への抵抗なき隷属。それが不適切な感情表現だと思う。
①容易に可能。
②無際限に。
③そういう悲観的な要素を持つ文学、特に詩を読み、憂鬱な気分に浸りきる。Twitterに感情を放流する。酒肴を用意し、それに応じて酒を飲む。まだ抜け出せないようなら、気の置けない間柄の誰かと遊ぶ。
④よくある。かつては今よりもよほどそうだった。創作においてはむしろ原動力としてさえ機能するが、必ずしも褒められたことではない。
⑤すべてが無意味なことであるように感じられる。また、生まれてきたことが莫迦らしく思われる。
切り替わりは速いが、切り替わってしまうのであって切り替えられているという気はあまりしない。怒りや哀しみ、憎しみといったネガティブな感情に支配されている場合はまるで切り替わらないし、切り替えるという選択肢をそもそも捨て去ってしまう。それを遠因として結果的に起きた機会損失は多い。
ただ、和解を契機とした場合に限り、怒りや哀しみを好意や情愛といったポジティブな方向へと強引に引き戻すことはできるかもしれない。引き戻すというよりは、むしろ押し進めている可能性もある。
大抵は何かに苛立ち、焦っている。範囲の不明瞭な恐れに囚われていることが多い。
感情の状態は内面と表層とで基本的に一致するが、上述した通り好ましい感情の在り様ではないことが多いため、しばしば朗らかに装っている。装いは装いであるため、稀有なことではあるが敏い人には見抜かれる。
過去一日というのがある過去の一日を指定する意味なのか昨日過ごした一日なのか、この設問文からは読み取りにくい。狙ってそうしている気配を感じるが、昨日ということで答えたい。実務的な事柄がいくつかあり、少し気忙しかった。あまり集中力の続く一日ではなく、パフォーマンスの低い内容に終始したような感じがあるので、あまり気分はよくなかった。
Fi: 内向感情 (関係性の倫理)
上記同様、昨日という意味に解して答えたい。乱高下という表現が適切だろうか。乱れた波長が再び調律されたような、そんな感じだったと思う。しかし、関係というのは一日で変化するものではないため設問として意図や前提が不明瞭と言わざるを得ない。
家から出ていない場合や一人としか関わっていない場合、答えようがないのではないか。妙なことを聞くものだと思う。
同情とは、自らの感情を相手の境遇や状況に同調させることを意味する。自身の境涯や経験をもとに相手の感情と同化しようという譲歩がなければ本来できないことであり、その点において自他境界を保ったまま安易になされる共感とは根本的に異なっている。
また、自身がそのような境遇や状況に置かれるとは微塵も思っていない場合に呈される憐憫(憐愍)ともその趣の一切を異にする。
本心からなされる同情が、同情された人間の心を安らぎを与えるのは、上から目線の憐愍や浅はかな共感とは違い、対等な視点で行われるからに他ならない。
よって、親身になるつもりもないのに同情してみせるような素振りをみせることは共感に過ぎないため、欺瞞であると言える。また、自身は無縁であるのにさも近い性質を有するかのように演じて同情することも実際には憐愍に等しいため、罪科と言える。
このような振る舞いは相手からむしろ怨みを買うため、避けなければならない。
そのような規範は社会に存在しない。仮にそのような規範があるとして、それは個人の内面において存在しているに過ぎない。よって、私はそのような他者の持つ個人的な規範を遵守してはいないし、遵守する理由もない。
私は私の倫理規範によって存在している。
人は所詮、自身がその内面に宿している規範意識に照らし合わせて自他の道徳・不道徳を判断しているに過ぎない。その大部分に固有の生育環境、中でも幼少期に親から与えられなメタメッセージが影響しているため、他人の道徳・不道徳を判断する際の基準が本当に当人の規範意識によってもたらされているかどうかというのは、非常に疑わしい。
そうした規範意識における内面の葛藤を自覚し、超剋(超克)しようとしている人間だけが、倫理において正確かつ敬すべき判断能力を有している。私における規範意識など、私の内面においてしか正しさを担保できない。よって、この設問は無意味に等しい。
以下は、「明らかにネガティブ」という点を念頭において記している。
そういう態度や反応は自由において保証されているため否定はしないが、こちらの関わりたくない自由も同様に発生しているため、最終的に関係を遮断するつもりで情報や見解を蒐集(収集)する。そもそも、それほどまでにネガティブになるのであればそれはもう私の存在を享受している相手の内面の問題でしかないため、相手が関わってこなければいい。
それでも何か伝えたい、関わりたいという場合の態度や反応は、どこかにポジティブな要素を残していなければならない。残念ながらそれが排されている時点でその相手と関わる価値があるとは思われない。
伝えることは可能であるが、基本的に関係の遮断を前提にしているため威力が高く、それを伝える頃にはもう関係として破綻していることが多い。基本的に一度ネガティブな感情を抱いた場合それが元に戻ることはない。
ただ関係が深い場合には感情は可塑的でありうるため、壊して作り変えるような形で関係を修復することはある。もし許せないような亀裂から修復する場合、許すのではない。ネガティブな塑像の上にそのままポジティブな塑像を作り上げるに等しい。
基本的には私は人を許さない。心の奥深くに抱いた怒りは忘れない。もし許すとしたらそれは相手を許すのではない。怒りに駆られてきた己を許すのだろう。自己を許さずして他者を許そうなどと、倨傲も甚だしい。
Ne: 外向直観 (可能性の直観)
これは哲学的な問いであり、人生に意味がないというのは飛んできた蚊を払うより簡単だろう。私たちは人生の意味を探すことができるし、あまつさえ人生に意味を見付けることさえできてしまう。この時点で、意味がないとは言いようがないと思う。
もし生きていることに意味があるとすれば、生きていることそれ自体が意味だろう。個人によってその来し方も行く末も異なる以上、人生の意味もまた、人によって違う。
人が持つ階層意識や規範意識、また倫理観や価値観というのは、無意識のうちに現れてくる言葉の端々から容易に理解される。
例えば日々の言葉選び。言葉遊びを好むかどうか。使用する語彙の由来や根拠、学術的な背景は?
文体や発言に代表される、そうした言葉が言語とは異なる形で現れているのが服装や佇まい、雰囲気だとしたら?
これだけの情報量があって他者の梗概を読み取れないほうが不思議だと思うのは、私の驕りだろうか。そうかもしれない。
自分が本当に愚かであるかどうかについて、くだらない検証を必要としてしまうところに人の愚かさが現れている。人は自らが愚かであるという事実を、明確な反証なしには受け入れられない。しかしながら、私たちはその思い上がりによって壊しながらも文明らしきものを築き上げてきた。愚かさというのは、無限であるがゆえに有益なのかもしれない。
愚者と賢者の差異は、このような構造を俯瞰したり、網羅したりできるかどうかということに尽きる。客観的視座を持つこと。客観もひとつの主観に過ぎないということを理解すること。それが、賢者へと至る道の一歩目だと私は思う。
その三者に明確な区別はないが、それを向けられた人間には、しばしばそれらを峻別する必要が生まれる。これを私は、誰のために述べるかという意図に応じて大別したい。
真実は自身を含んで他者のために述べられる。半分だけの真実は自身か他者、どちらか一方のためだけに述べられる。虚偽は、自身のためにのみ述べられる。誰のために、というその度合いが高ければ高いほど、純粋にもなるという気がする。
虚偽というのは、常に何かを守るために生まれるのだと思う。そして虚偽は、時に守ってはならないものを守らされている。
常に正確を期する姿勢や構造の前には、アイデアは脆くも崩れ去るだろう。そのような土壌にあってはアイデアというものが本来的に持つ不正確な性質は必要とされないため、そこで生まれるものは既にアイデアとは呼びえない。
そもそも、初めから完璧なアイデアはアイデアと呼ぶに値しない。それは完成された物質であって概念ではない、進化の余地も改良の余地も残されていない、完成品という名の粗悪品だと思う。アイデアにおいて重要なのは、あくまで即興性と応用力だろう。
別の視点をトレースする力のことだと思う。単に思い描くだけではなく、思い描いた事柄に自身の全体像を重ね合わせる能力が想像力という言葉が指し示す意味だと考えたい。
そのように高度な能力であるため、持っていたとしてすべての人が簡単に使いこなせるような代物ではないのかもしれない。
世間には間違った想像に振り回されて本質から外れた言動に終始してしまう人が少なくない。気遣いのつもりで言った同情の言葉が上から目線の憐愍(憐憫)や嘲笑と受け取られたり、ユーモアのつもりで放った機知や冗談が真意と離れた解釈を生んで逆鱗に触れてしまったり……想像力の欠如というのがそういう事態を意味しているのであれば、すべての人に使えるものではないだろう。
私は、そうした誤解をされにくい適切な物言いを選ぶことができる。これは偏に想像力の賜物と言えるのではないだろうか?
黙っている時のほうがよほど誤解を受ける。また、他者から相談を受ける場合に、相談者がその生活で向けられた言葉や行動の意図を読み取ることにも長けている。
望ましくはない側面もあるが、そういうものだとしか思わない。そうした違いを煩わしく思うか好ましく思うかというのは、要するにその居場所に依存する。
居場所がその際立った違い(特質)を認めるのであれば利点や美質として好ましく機能するだろうし、居場所がその特質を認めないのであれば、懸念や危険として作用する。
判断基準としては、集団や組織に染まりきっているかどうかだと思う。その属している場に対して俯瞰的な視座を有しているか、または網羅的な思考を行っているかという点に基づいて、私は他者を峻別している。
他者と異なる在り方が容認されるのは、それを容認できる組織や集団に属する場合、もしくはそのような考えによって組織や集団を率いる場合だろう。組織や集団と適切な距離を置いている場合もそれに近いが、厳密には容認されているというよりは棲み分けが成立していると言うべきだろうか。
Ni: 内向直観 (時間性の直観)
内面と表層の葛藤と、生涯における位相の変動を経て変化するのだと思う。こうした変化は、人が人として生きていく限り当然かつ終わりのないことだと思う。よほど近い間柄の人でないと気付かないように思うが、特に確証はない。
現在という地点を立脚点または消失点として、過去と未来を逆照射するもの。一方向に流れているようでいながら多方向に展開している、得体の知れない不可視のもの。失った時間は返ってこないわけではなく、喪失という形を取ってむしろ現れ続けてくるため、時間という概念が恐ろしい。
このような強力で抗いがたい概念に囚われないためには、北海道か屋久島にでも棲むしかない。少なくとも本州に暮らしている限りそんな抵抗は不可能だろう。
極めて困難で、困っている。手助けが必要であるかどうか以前に、社会は時間の予測を手助けしてくれるようにはできていない。他の人が立てた時間の予測が自分の感覚に合致することは極めて少なく、信じようがない。
何故なら、その予測は私の資質に基づいているのではなく社会的な指標にしか基づいていないから。
他の人が遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまった時、あなたはどう感じますか?
見積もりが甘く、超過してしまうほう。遅刻も起こしやすい。自分自身がそうであるため、他者のそうした点を時間の観点から責めることはない。責めようがない。
①軽い後悔と愉悦の予感が鬩(せめ)ぎ合う
②10分から20分ほど遅れそうになっている
③自責の念に駆られている
④嫌われているのかどうか不安になる
⑤特に連絡は入れず、普通に待つ
⑥連絡に対して返答や反応がなければ帰る
基本的に待たせるほうであるため、④⑤⑥は滅多に起こらないし、自分が相手に対して④⑤⑥を強いていることを考えると生きているのが嫌になってきた。皆ごめん。
呪いだと思う。見えないものに拘束されている感じで、徒に焦燥感が募る。幸運や不運というのは、苦境に立たされた際に周囲の人に恵まれるかどうかに影響を与えると思う。
命運というのは、その人が生来的に有している資質や能力や才覚に、後天的な素行や人望や技術などの後天的な要素が合わさったものだと思う。それを私は天命と規定している。
いただいたご支援は感性の維持更新のために活用させていただきます。