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淡路島 楠本の由来

元旦に帰省した淡路島の実家は、淡路市楠本にある。
楠本の名前の由来は、楠木正成[1],[2],[3],[4]と関係がある。

1331年、96代天皇「後醍醐天皇」に召し出された楠木正成は、鎌倉幕府を討伐するために「赤坂城」で挙兵。そのあと、「千早城」を築いた楠木正成は、鎌倉幕府軍からの猛攻に耐えて籠城戦を繰り広げた。

これによって楠木正成は、諸国の反幕府勢力に蜂起を促した。赤坂城、及び千早城で挙げた武功が高く評価された楠木正成は、後醍醐天皇が始めた「建武の新政」のもとで、「河内守」に任ぜられた。

さらに楠木正成は、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)・河内国(現在の大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)3ヵ国の守護職にも就いた。

1335年(建武2年)に楠木正成は、後醍醐天皇に反旗を翻した「足利尊氏」を九州に敗走させたが、その翌年の延元元年(1336年)5月、楠木正成が湊川の戦いにて獅子奮迅の働きむなしく足利勢の大軍に包囲され、弟・正季(まさすえ)公と刺し違え自刃されるより前、家臣吉川弥六に日頃守護神として崇め身に着けておられた八幡大神の神璽(みしるし・文殊のようなものと伝わる)を託され、戦場より逃れ安住の地にて奉祀するよう命じられた。

弥六は神璽を首にかけ、仲間数人と共に夜陰に乗じて海路淡路島に落ちのび、現在の淡路市楠本付近の浜に辿り着いた。上陸し、疲労のあまり仮眠していたところ、兎に起こされ追手に気付き更に山奥へと逃れた。これより後、弥六一行の子孫は兎を八幡大神の厄除の使いと考え、その肉を食する事を禁じたと伝わる。

弥六達は潜伏を続けながら山中に小祠を建て八幡大神を祀り、周囲を開拓し一帯を楠木村と称した。これが後に楠本(くすもと)村と改められ、現在の淡路市楠本となったものである。

現在も楠本地区にはこの小祠が元八幡(八幡さん)として伝わっている。実家に帰ったとき、最初にお参りするのは、この八幡さんである。

その後、この元八幡(八幡さん)については弥六一行が残党狩りを逃れた厄除の御神徳をはじめ、祈願成就の御神徳顕著なる事が評判となり、応永6年(1399年)に来馬庄(現在の久留麻の社地)に遷され、来馬・浦・仮屋・谷・下田・楠本・中持・小田・河内・白山などの村々の鎮守の「八幡宮(八幡さん)」となった。

明治14年5月に、周囲の浜辺が「松帆の浦」と呼ばれていたことから「松帆神社」[5]と改称し、現在に至る。

 ちなみに大阪で生まれた子どもたちの宮参りは、3人ともこの松帆神社でお世話になっております。

これ以外にも、出身地の淡路島について、知らないことがたくさんあるので、いろいろ、学んで理解したことを発信していきたいです。

[1] 


[2] 楠木正成
[3] 後醍醐天皇を支えた楠木正成の見どころ+鎌倉幕府打倒に繋がった正成の戦い方、日頃の行いとは?
[4] 【建武新政】108 楠木正成の最期 湊川の戦い【日本史】
[5] 松帆神社の由来


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