【一年に一度あるかないかの不調の原因は、足の爪が伸びていたことだったという話とついでに得た気付き】
昨日、勤務中、数年ぶりに腰が痛み、肩甲骨が痛み、肩がコリ、頭痛がしました。
42歳なので当然と思われるかもしれませんが、当然ではないのです。とっくに克服したはずのものだったからです。
この手の不調はいつもは、かすかに気付いた段階で正しい方法にての歩行を意識的に数分行うだけで収まるのです。
最近は基本、歩くだけで身体が整うので。
でも治らない。というかきちんと歩けていない。というかキチンと歩くと痛い。足裏の中指付け根部分に魚の目ができている。それを踏んづけたときの痛みを避けるために、色々な場所で衝撃を和らげ、そのため色んな部分が正規外の動きをし、それが不調になっているのだろう。
そもそも何故、魚の目ができている?それもまた正しい歩き方をしていないから。本来、そこには圧力がかかるはずがない。浮いているはずだから。。
というところで気付くのです。足指の先端で踏ん張れていない。あれ?ひょっとして足の爪、伸びてるんじゃないだろうか?てか、最後に切ったのいつだ?
見てみたら、正常よりも1.5ミリも伸びていた。これでは足の裏で地面を掴む力は7割減といったところ。
そりゃー。魚の目もできる。
さくっと足の爪を切って、地面を掴んでみる。
「あ、これだ!」
当然のように魚の目の部分は床から浮いていて、痛みはない。正しく地面を足裏でつかめるようになったところで2分ほど歩き。腰痛、肩こり、頭痛などなど全て解消。
足の爪の伸びにも気付かず、魚の目にも気付かず。。
文字通り「足元がおろそかになっていたと」ということですね。
そして改めて思い知ったのは。。。
歩き方を変えるまでは365日、こんな苦痛を味わっていたんだなぁ。。ということ。
これは。。余裕がなくなる。
恐ろしいのは痛いことではなく、痛いということに気付けないこと。気づいていなくても身体は、キチンと傷んでいる、そしてドンドン傷は大きくなり、悪くなる。
これは人に優しくはなれないよな。。
そりゃ、痛くても人に優しい人はいくらでもいるだろうけど、その人が痛みを吹き飛ばしたらもっと優しくなれるでしょう。そう考えたら、その人の中で考えたら。。やはり人は痛みを持つことで、人に対する優しさを多少なりとも失う。
端的にいうと、人は自分が背負う痛みに容易に気づくことができず、そして知らず知らずのうちに優しさを失ってしまう。
正直、昨日、痛みを感じていた時の私は、いつもの私と比べたら間違いなく、じーさまばーさまに対して優しくなかった。間違いなく。。
これはさらにいうと、時々「人間は歳を重ねるごとに性格が悪くなる」と言われるのはそういうことかもしれません。痛いところ増えるから。年取ると。
そう考えると、ますます、高齢者に対する尊敬は増すばかりですな。
私などよりもよほどたくさんの痛みを得ながらも、精神の強靭さによって節度を保っているか。
もしくは、叡智と習慣、その実践により容易に避け得ぬはずの痛みのリスクをくぐり抜けることができるほどの聡明さを持っているか。
いや、その両方を持っているということでしょう。
人間、90歳にもなって笑顔を浮かべることができるということは、そういうことだと、身をもって知りました。
この気付きは本当に大きい。
自分の痛みに気付くという対症療法的な知性。
そして、そもそもの痛みの原因を作らぬよう心身の手入れを徹底するという予防療法的な知性。
人として生まれたからには、人に優しくしたい
そう思うのは簡単だが、そのためには本当に多くの様々な小さなことを一つ一つキチンとしなければならない。
一瞬一瞬の地味で地道な積み重ね以外にない。「これ一発で解決ー!」のような功利主義的現代にありがちなマインドでは成しようもない領域。
足元を疎かにしたことによるトラブルで、1つ大人になれた。
といった心境であります。
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