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卒業設計イベントの曲がり角

卒業設計講評会の種類

今年は本務校の藝大以外に大阪芸大、滋賀県立大、千葉大、DiplomaKYOTOにお招き頂き、講評会に登壇させて頂いた。残るは3/15の中部卒業設計展NAFに登壇予定である。本務校以外で5回も登壇するのは例年に比べるとやや多いほうであるが、2000年代終わりからかれこれ15年ほど毎年3-5回のイベントに登壇し続けたので場数はこなしてきた方なのではないかと思う。

卒業設計の講評会にはいくつか種類がある。
a. 大学単位で行われ、学内の専任の先生を中心に賞の選考なども行われる正式なもの
b. 大学単位で行われ、賞の選考など正式な選考は終えているが、学外の講評者の意見を聴くための非公式なもの
c. 大学を横断して地域単位もしくは全国単位で開催されるイベント

講評に登壇する側からすると、cが面白く、aは気を遣う。特に私立大学の場合などだと人数が多いため採点には常勤の先生に非常勤の先生も加わり大人数になるため、審議にも時間がかかる。cは意欲的な人が集まっているため、一定のレベル以上の作品が集まっているが、aは玉石混交でありあまり意欲の感じられない作品にまで個別に意見を述べなければならない場合もある。

講評会の種類と選ばれる作品の関係

ざっくりいうと社会性(時代の後衛・バランスとれているかどうか)を評価するのがaの学内講評会作家性(前衛・先鋭的かどうか)を評価するのがbもしくはcの学外講評会学内1位で学外無冠の人は時代の後衛。逆が前衛。たまに両方1位とる人がいて、そういう人が「ゼネコンと組んで公共施設設計できる人」みたいになれる。

1995年に行われた「せんだいメディアテーク」の審査のように建築家(作家)や批評家だけで審査すると「先鋭的で・時代を画す・が評価の分かれる」作品が選ばれる。自治体職員や市民、研究者だけで審査する(2000年代以後)と「凡庸だが・少し気が利いていて・バランスのいいもの」が選ばれる。

社会は主流亜流から構成されているのだから亜流の代表である作家が社会を牽引するわけではない。ただし主流は必ず形骸化するので行き詰まった時に打開する役割を果すのが作家。互いに罵り合うのではなく、それぞれ役割を自覚して必要な時に協働すれば良い。相互に批判的な協働こそが王道であろう。

大きなイベントに出ると自分は主流か亜流か見極めることができる。学内の評価だけだと主流になれるかどうかはわかるけど、亜流として(作家として)輝けるかどうかは実はわからない

何を見るか

講評会はプレゼンテーションをパッとみて「図面が濃い」「模型表現が良い」などと言って優劣だけを述べるのは比較的簡単である。ただし、その提案に建築設計というジャンルの特殊性のなかでどのような意味を読み取れるかを述べるには多少のリテラシーと分析が必要である。

選考方法だが、私の場合は以下の3段階で絞り込むことが多い。

(1)まずタイトルとメインビジュアルからセンスがあるかどうかをみる。プレゼンボードに毛筆体を使う人模型にパウダーまく人(初心者に多い)はデザイナーとしてセンスのなさを露呈しているので評価の対象から外す。

(2)次に図面から寸法や構造感覚をみる。木造の軸組模型に垂木を掛けているのだが部材の間隔があまりにも不正確だったり、スケールの合っていない植物を並べて雰囲気だけ演出している(通称「お化け植栽」)など雰囲気設計となっているものは評価が下がる。反対に設計が上手い人は断面が上手いので正確で詳細な断面図があれば評価の手がかりになる。

(3)次に説明文から議論できそうな人間かどうかを見る。壇上ではボキャブラリーは自己流でも論理に一貫性があるタイプが一番盛り上がる。それっぽい説明が書いてあっても論理が組み立てられないタイプ、論理が破綻しているタイプは台本を読みながらの説明はできても応答が成り立たないのでここで見抜く必要がある。

ここまででだいたいひと作品あたり30秒、いや10秒。短いと思われるかもしれないが、経験で要点を掴めるようになってくる。パースや模型などのビジュアルインパクトを重視しているというよりもむしろパッと見て充実しているものに引っかからないように複数のレイヤーでスキャニングしている。

最近多いひとりずつ時間を割り当て全員の話を聞かされるシステムは聴くに値しない大半の作品に時間を割くことになり、無駄が多いので審査する側からすればできるだけ避けたい。

リアリズムに対する構え

ここからが(自分の中での)本審査である。まずテーマをみる。行政や民間の不動産会社でも議論しそうな「歴史的街並みの再生」「空き地の活性化」みたいな提案はほぼ大人の真似事なので選んでも議論が盛り上がらない。そのほかは記憶の継承、産業遺構、植物などのテーマも多いが、この辺りもこの10年の定番なのであまり新しい議論になりにくい。

次に手法を見る。修士設計ほどではないが、コンテクストからパタンを導く1970年代に生まれた設計手法「パタンランゲージ」を用いたコンテクスチュアリズムが今も定番で京都でも160作品中20作品くらいあった。最近はアクターネットワークセオリー(ANT)が3-4作品。あとは全体像をもとめないマテリアル系、エレメント系がちらほらという感じである。

1995年以後の一般的な状況として、誰がクライアントか、どんな人が使うのか、のみならず、敷地の所有者は誰で、誰がお金を出すのかなどのリアリズムが重視される傾向がある。以前は学生なのだから自由に、とか学生はもっと現実を見ろ、などと言っていればよかったが、最近はそうでもない。

2000年代までは「人が住んでいるとこを壊して複合施設をどかんといく」みたいな提案が評価されたが、昨今は「地域でよく文脈を観察して記憶を取り戻すために構えを整える」みたいな文脈主義が評価されるため、多少丁寧に指導された学生は皆パタンランゲージに邁進し、設計力がないも「丁寧に話を聞いた結果、何もつくり(れ)ませんでした」みたいなことになりがちである。

リアリズムを追い求め、学生のうちに地域にインタビューなどに出てしまうと直面するリアリティに対して未熟な想像力が負けてしまい、設計案を作れなくなってしまうパタンも多く見られるため、いっそのこと「学生はインタビューに出るな」と呼びかけたほうがいいのかもしれないと思うほどである。

建築における批評性

アートの方が建築より時代の流れに敏感なので、昨今のベネチアや今年のドクメンタのように皆が気候変動とジェンダー、ウクライナ、となってしまうということは今のところ建築の卒業設計では見られないが、来年くらいはそうなるのだろうか。

個人的にはそのような方向性はあまり面白くなそうだと感じている。今年の千葉大ではMidjourneyで意匠を設計し、トポロジー最適化で構造を設計し、3Dプリンターで模型を出力しました、という学生がいた。学内講評会ではなかなか評価されないタイプであり、自家中毒に陥る危険もあるが、後から見たら先駆的で建築に対する批評として読める、磯崎新のような存在なのかもしれないので積極的に掘り起こしていきたい。

この中で「次の時代のスター」を探すのが審査員の仕事なのだが、大人のコンペでも2位の作品が批評的ポジションと言われるように「見た目のインパクトに欠けるが次の時代を語れそうな作品」を見い出して「見た目は充実している作品」を揺さぶることが議論の場の設計として大事であると思う。今年の千葉大のMidjourney作品はそのようなポジションに感じられとても面白かった。

私は以上のような見方でこれまでの卒業設計イベントに参加してきたが、教員として学生の表現の習熟度やボリュームを客観的に測るというよりも、同時代を生きる建築家として提案者の立脚点や視点に関心を持ち、その動向を主観的に見極めようとしてきたように思う。

その意味で歴代の受賞者、特にその場で一番批評的ポジションだと思ったものにお贈りしてきた藤村龍至賞の皆さんが社会でクリティカルなお仕事をなし活躍されることを願う。

まったり化する卒業設計イベント

Diploma x KYOTOは記憶が正しければ4回目の登壇であり、親しみを感じているイベントのひとつである。同じイベントでも毎回違う世代と接しているので都度印象が変わる。2010年頃は京大生が仕切り、京大生が入賞するイベントだったが近年は京大生の出展も減り、今年の最多は立命館大学、大阪工業大学、大阪大学の順で、近大生が代表を務め、2日目の最優秀賞を受賞していた。

毎年改善が重ねられ、運営に成熟を感じるが、平野利樹さんのブログで2010年頃のDiplomaを振り返ると、あの頃のDiplomaでの出展者と審査員の緊張感ある議論の場はどこかで失われたようにも感じている。評価軸を多様化しようとDay2とか3をやり始めたあたりからどこかで「まったり革命(宮台)」が進行してしまったのかもしれない。

Diplomaで3日間いろいろな人を呼んで審査するシステム、本来は「作家・批評家」の日(亜流を選ぶ日)が1日あるだけでいいのではないだろうか。「いろいろな分野で評価される」は実は自治体職員や市民や研究者の評価と同じで結局はバランスを測ることになり、そこまで多様な結果にならず、「拡大した学内講評会」のようになってしまう。

Day1でスターを選んだら残りの2日は学生同士で相互にたくさんシールを貼って「いいね!」を贈りあい、同世代でコメントの交換をして交流したほうが参加者の満足度は高まるのではないだろうか。学生の承認欲求のために忙しい大人を3日も巻き込む必要は本来はないであろう。

建築界のスターシステムは1970年代から2000年くらいまではアイディアコンペ2000年代後半以降は卒業設計イベントに移行したが、今後はどうなるだろうか。アイディアコンペは95年以後のリアリズムのなかではあまりにも抽象的な問いであるし、卒業設計イベントはまったり革命が進んで刺激が足りなくなってきている。そろそろ新しい議論の場が設計されてもいいのかもしれない。


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