断章【00016】~【00020】
【00016】
それでも女性の裸体が好きだし、それでも女性の裸体画を表現したい、
そんな男性優位・視覚優位の差別化の前景化に加えて、
ジェンダーフリーを暗黙の裡に目指すようになった現在社会においても
ヌード礼賛は時代に逆行するものだ。
しかし、それでも容姿を重要視するルッキズムが
あからさまに蔓延する現状において、
女性のヌードを表現して何が悪いのだと言う居直りにも似た主張もまた、
多様性を考えれば有効なのだと言えるのかもしれない。
果たして今後において裸体表現が現代アート足り得るのかという視点は、
ますますさらにマイナーなものとなり、水面下するのではないか。
それではしかし今までとほぼ変わらないままではなかったろうか、。
【00017】
何もないに等しい場所にこそ、神聖さが宿る。
何もないに等しい現代アート作品にこそ、
真の究極の藝術が宿るのだ。
今こそ何もないことの凄さ、
神聖さを 改めて認識すべきなのではないか。
何もないこと、何もしないこと、その凄み。
藝術は限りなく無をめざし、限りなく無に至るのだ。
そして、そこには、何もないわけではなく、
たとえば、 0.8mmの・だけがある、0.8mmの・しかない。
しかし、それは、究極の現代アートそのものなのだ。
そこにあるのは藝術の究極の姿である。
【00018】
何回でも言おう。
現代アートは無を、究極の無を目指すのだ。
何もないことの極致をこそ理想とする、
それが現代アートにほかならない。
それは、しかし、無を、究極の無を目指すことであって、
まったくの無となることではないだろう。
何もないことの極致を理想とするということは、
やはり何もなくなることではないだろう。
無に至るプロセスにこそ、現代アートの極致が、理想が宿るのだ。
その、無を目指す作品自体に、現代アートの極致が、理想が宿るのだ。
究極の無に至る一歩手前の、その、状態にこそ、
真の現代アートの究極の理想が現前するのだ。
【00019】
若い頃の坂本龍一は「表現は恥ずかしい」「表現などするな」みたいな
ニュアンスの発言をしていたように記憶する。
赤瀬川原平は著作『芸術原論』の中で、
何も表現するものがないので、
千円札を模写し始めたと自身の過去を回想していたように記憶している。
確かにその部分の記述は異様に興味深かった。
また東野芳明は『ジャスパー・ジョーンズ』で、
サミュエル・ベケットを引きながら、何も表現することがないが、
何かを表現しないではいられない作家の性(さが)を指摘していた。
自分もまた何も表現することはない、何も表現したくはない、
そういう無の表現性とでも呼称するしかないような心情から
現代アート作品に進んでいたのではなかったか、。
そう、表現するものなど表現したいものなど何もない。
表現されたものはみな似たような顔をさらし、
どれもこれものっぺらぼうにしか見えない。
岡本太郎なら「べらぼうめ!」とでも叫んで放置してしまっただろうか。
何もないことの極致をこそ理想とする、
それが現代アートにほかならない。
それは、しかし、無を、究極の無を目指すことであって、
まったくの無となることではないだろう。
表現しないことを目指す、表現の無化さえもまた、
まったくの表現の無に帰すことではないだろう。
そこには最小限の表現がどうしようもなく顕在化し、
無を理想とする表現そのものが現前化しているからだ。
【00020】
そして、物語は、常に、頓挫する。
太宰治「トカトントン」のように、常に自分の頭の中で、
交錯し交響する短文だ。
なぜその短文が反復されるのかは まったくの謎である。
そう、 そして、物語は、常に、頓挫する。
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