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散(歩)文『電車の音の聞こえる街で暮らしてみたい』

2024年2月。
旅行で東京のホテルに泊まっていた。
ホテルは30階建てで、私が泊まったのは28階だった。

朝、窓を開けていると、隙間から地上を走る電車の音が聞こえてきた。
チェックアウトまではまだ間があり、ベッドに寝転がってぼーっとしていた。
28階でも線路を走る電車の音はよく聞こえた。
目を閉じて、夢見心地。
その時、ふと思った。

電車の音の聞こえる街で暮らしてみたい。

そういえば、会社の後輩がこんなことを言ってい。
「高架下を歩くと、ものすごくうるさいじゃないですか? ぼく、あの音がダメなんですよ」
10分に1本は電車が走り抜けていくような忙しい街を歩いているときのことだった。
へえ、そんなことを思う人間もいるのか、と意外な気がしたものだった。

電車の音に限らず、小さな頃から雨や風といった環境音が嫌いではなかった。(雷は例外。心臓に悪いので)
反対に声が苦手だ。
四方八方に開けたカフェの席などは最悪で、あちこちを飛び交っている声にいちいち耳が反応してしまって落ち着かない。
昔、漫画家の荒木飛呂彦さん(『ジョジョの奇妙な冒険』の作者)がテレビ番組で、作業中によく聞くのは洋楽、日本語だと歌詞が頭に入ってきて引っ張られてしまうから、と言うのを聞いてひどく共感したことがあった。
同時に、ということは英語を話せるようになってしまったら洋楽もうるさく感じてしまうのではないか、と英語をマスターするか否か真剣に考えこんだものだった。結果的に今もってまったく聞き取れておらず、的外れな杞憂に終わった次第なのだが。

的外れといえば、私はよく的外れな発言をすることがある。
たいていは話半分に聞いているのがその原因で、ではなぜ話半分に話を聞いているかといえば、他の音に気を取られてしまうことが多いからだ。
音の溢れている時代だ。
電車で、会社で、カフェで、ホテルで、大量の人工の音が溢れている。
漁業の大漁なら大儲けだが、大量の音は容易に私の耳を翻弄する。
だから、時々、その音を1つ1つ外してみたくなる。
そうして、何も音のない場所に立ってみることに憧れる。

以前、J-WAVEのラジオ番組『World Air Current』で俳優の満島真之介さんがタクラマカン砂漠を訪れた時のことを話していた。
一面の砂。
目を閉じると、自分に当たる砂の音だけが聞こえる。
他には何も聞こえない。
そうして目を開けると、筆で払ったかのように目の前の景色が変わってしまっていて、その場から一歩も動いていないのに、もう自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。
風の音とは、何かと何かがぶつかる音のこと、とも言っていた。
砂漠に立ち、風の音が聞こえるのは砂が自分の体にぶつかるから。
音というのは、誰かが、何かが、そこに有るという証に他ならない。

砂漠の中に1人立ちつくす自分を想像してみる。
まるで映画のワンシーンのようじゃないか。

かつて映画はサイレント(無声)な娯楽だった。
そこで活躍していたのは弁士と呼ばれる声の達人たちだ。
照明が落ち、暗幕が引かれた真っ暗な映画館。
正面のスタンド席の前には、台本を乗せる台が置かれている。
その台に赤い豆電球が点り、逆光で浮かび上がる弁士の面。
声の魔術師たちは、老若男女を問わず語り出す。

また、窓から電車の走る音が聞こえてきた。
そろそろチェックアウトの時間がきたようだ。
ベッドから起き上がり、窓を閉じながら、また思った。
電車の音の聞こえる街で暮らしてみたい。



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