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本の森散歩12『狼の幸せ』作:パオロ・コニェッティ 訳:飯田亮介(早川書房)

 以前、関東に住んでいた頃、ある読書会に参加していた。課題図書のない自由形式の読書会で、銘々が自分の読んだ好きな本について語るのだが、その中で一人の好青年がこんなことを言っていた。
「人生を学ぶなら小説を読みなさい、と大学時代の先生に教わった。自分は今でもそう思っていて、小説以上に人生を学べるジャンルはないと思う」
 はっきりと断言していた。私は今も昔も断言するのが苦手な人間で、そんな風に断言されるとおっかなくなってしまうのだが、一方で自分が大学時代に受けた講義を思い出してもいた。
 大学生の私は文学部に所属していて、その講義の中で教授がこんなことを言っていたのだ。
「文学を学んで何になるのか? という声を聞くことがよくある。確かに文学は儲けとは縁遠い。けれどもしこの先、学生である君たちが大人になって何らかの人生の困難に直面した時、助けてくれるのが文学だ。その時に感じる想い、感情を疑似体験しておく、あるいは解釈できる言葉を持つことができる」
 当時の私はアニメとゲームに夢中なお気楽な学生で、教授の口にした言葉はちっともピンとこなかったのだが、頭の片隅には残り続けていた。

『狼の幸せ』はイタリアの作家パオロ・コニェッティが2021年に発表した小説だ。コニェッティは2016年に発表した山岳小説『帰れない山』でイタリア文学界最高峰のストレーガ賞を受賞、それに先立つ2013年には随筆集『フォンターネ 山小屋の生活』を刊行している……、らしいのだが、私はストレーガ賞がどういうものかよく知らない。それでも、どうやらこのコニェッティという作家は山岳小説の名手らしいぞ、というのは伝わってきて、ぺらぺらとページをめくりはじめたみたわけであるが、いつしかそれはザクザクと雪山を登る足音に変わっていた。
『狼の幸せ』は恋愛小説と山岳小説の両面を合わせ持っている。舞台はヨーロッパアルプスはモンテ・ローザ山塊のふもとにある小さな集落、フォンターナ・フレッダ。主人公のファウストはイタリアの都会ミラノに暮らす40歳の作家だが、10年来のパートナーだった女性と別れたばかりで、人生をやり直すために幼い頃から親しんできた山に戻ってきた。フォンターナ・フレッダ唯一のレストラン「バベットの晩餐会」で新米コックとして働くファウスト。そのレストランの女性オーナーであるバベット、新米ウェイトレスのシルヴィア、店の常連である生粋の山男サンルトルソ。この4名のおよそ1年に及ぶ交流を描くのが本作だ。人によってはこの4名の人間ドラマに魅力を感じる人もいるのかもしれない。しかし読み終わって私の頭に中に残っているのは、雪のフォンターナ・フレッダの景色だった。
 雪のフォンターナ・フレッダは峻険で、草木が芽吹く春の季節も短い。
 人は山に様々な思いを委ねる。
 帰る者。
 去る者。
 探す者。
 共に生きる者。
 けれど、山は人に無関心だ。雄大な自然は、頑としてそこにあり、懐深くありながら、たやすく人を見捨てる。
 物語の中途で、ある一人の登山者がやって来る。彼は山で命を落とす。たまたま生きている彼を最後に見た新婚のカップル。彼の死後に山を訪ねてきた妻。彼の死に冷静に対応する山小屋の主人たち。コニェッティの筆は精緻だ。かといって冷たくもない。ただそこにあるものとして、山での生活を描いている。

 この小説を読み終わった時、大きな感動はなかった。
 その代わり、目を閉じると、雪山で暮らす彼/彼女たちの姿が脳裏に浮かんできた。あたかも自分自身がフォンターナ・フレッダを訪れ、雪山での日々を過ごしたかのように。

 小説は時間芸術である、という言葉を時折耳にすることがある。
 時間とは体験であり、記憶だ。
 人は主観的な生き物で、自分の望むように世界を見る。
 私の見る世界。
『狼の幸せ』を読むことで、そこにフォンターナ・フレッダの雪山での日々が刻みこまれたのだとしたら……。
 何の役に立つのかと問われれば、さっぱり分からない。やはり小説は儲けとは縁遠い。けれど、回り道の多い人生は楽しいものだ。道草ほど楽しいものはない。
 その道行きに、フォンターナ・フレッダというまだ見ぬイタリアの山の雪道が足されたのだとしたら、これはなかなかに味わい深いことだ。

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