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本の森散歩5 『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』作:本屋lighthouse 関口竜平 (大月書店)

暗闇に迷うひとには足下を照らす光を
夢を抱くひとには果てなき道を照らすしるべとなる光を
過去、そして未来へと あまねく光を
〔中略〕
本は光となりうる。読むひとにとって。書くひとにとって。その間をつなぐ存在としての、灯台でありたいと思っています。

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p8より

本書は千葉県幕張にある本屋lighthouseの店主関口竜平さんによる本屋論である。
本屋lighthouseの一番の特徴は、反差別・反搾取の意思表示を掲げる本屋である、ということだ。という謳い文句を目にした私は、反差別・反搾取に関わる本を中心に置いてある本屋なのだろうか? それは生真面目な本屋さんだなあ、ガチガチに堅苦しそうだし、読むのは止めておこうかな……と思ってタイトルを知ってもしばらくは手に取るのを敬遠していたのだが、実際にページを開いてみると関口さんの語り口はライトで勢いがあり、さくさくとページを読み進めることができた。
そもそも関口さんの掲げる反差別・反搾取とは、差別的な本を店に置かない、という意味だった。どうして差別的な本を置かないのか? それは店を訪れる人の中に、その差別の対象になる人がいるかもしれないから。もしその人がその本を手に取ってしまったら、その人にとってその本屋はもう安全な場所ではなくなってしまうから。
本屋は店に置いてある全ての本を読めるわけではない、と関口さんは正直に述べている。日本の年間の書物の刊行点数は7万件を超えると言われている。その全てに目を通すことは現実的ではない。だから気づかずに差別的な本を置いてしまっている可能性もある。本屋lighthouseも置かれている状況は同じだ。だからこそ、日々、更新と改善を繰り返していかなくてはならない、と関口さんは語る。
一方で読者の望む本は全て揃えておくのが良い本屋ではないのか? それが顧客ファーストの本屋ではないのか? という意見があることも関口さんは深く理解している。そのうえで、反差別を掲げているのだ。
興味深かったのが、ヘイト本を食べ物のアレルギーに例えてあったことだ。もしアレルギーを持っている人がレストランに食事に来て、メニュー表を開いたら? そこに一切アレルギー表示がなかったとしたら、どうだろうか? 本人も店も知らぬままアレルギー食材を口にし、発疹等の症状が出てしまうかもしれない。最悪、命に関わるような症状が出てしまうこともあるかもしれない。本屋がヘイト本がどうかを吟味せずに本を並べておくとはそういうことだ。どこに自分にとって有害な毒が隠されているかわからない。猛毒を目にし、心身にひどいショックを受けるかもしれない。そんな本屋で安心したひとときをすごすことができるだろうか?

差別とは何か?
このことについて、本書は嚙み砕いて教えてくれる。

差別は悪意ある人だけが行うものではなく、たいていは悪のない人がする(『差別はたいてい悪意のない人がする』キム・ジヘ著、大月書店)。

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p144より

マジョリティ(多数派)とは気づかずにいられる人/気にしないでいられる人である(ケイン樹里安、社会学者)。

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p122より

ヘイトというと、街宣車やスピーカーを持って「外国人は出ていけ」と騒ぎ立てているおっかない顔を想像する人も多いと思うのだが、それはむしろ一部にすぎず、そもそも自分が差別していることにすら気づいていないほうが大多数だというのである。なぜなら差別は構造的なものであり、また交差性を持つものだから。
在日コリアンの障害者、という人がいたとする。この人は在日コリアンということで差別を受けるかもしれないし、障害者ということで差別を受けるかもしれない。在日コリアンだから、障害者だから、とどちらかだけで線を引いてしまうと、交差性、つまり二重の特性を持つ人が取りこぼされてしまう。
この例は、私もすぐに飲みことができた。では、次の例はどうだろうか?
高校で文化祭の出し物を話し合っている。焼きそば屋の屋台をすることに決まった。その役割分担で女子は調理を、男子は客の呼び込みを担当する。さらにチラシを作ることになり、水着の女子生徒をアイキャッチとして使う。これらの意見を男女比7:3の教室で投票をして決めることになった。
女子が調理を、男子が呼び込みを、と本人の得意不得意に関係なく決めるのは前時代的ではないか? というのは一読してすぐにピンときた。しかし、その後の水着の女子生徒というのが性差別的(前提として水着の女性を宣言材料として使えば人が集まる、だからそれを良しとする、という社会的状況がある)であり、さらに投票の男女比に偏りがある時点で公平な選挙など望むべくもない、ということは種明かしをされるまで気づかなった。
構造からくる差別。それは無意識レベルで植えつけられた前提だ。マジョリティ(多数派)であるうちは、自身が安全圏にいることから、そのことに気づかないでいられる。

私は在日コリアンである。今は帰化して日本国籍を取得しているが、在日の意識は今も残っている。ハングルを話すこともできず、韓国の歴史にも詳しくない中途半端な在日三世であるが、しっかりと国籍は大韓民国だった。だから在日、韓国に関する話題には自分のアンテナがビビッと反応する。
その一方で在日以外の外国人の実情については、ほぼ何も知ろうとしてこなかった。自分とは違う人種だと思っていたからだ。自分にとって日本人・在日以外の人は外国人だ、という無意識の前提があった。
この排他性。知ろうとしないこと。
学生時代、まだ国籍が韓国だった時に、アルバイト先の先輩に次のようなことを言われたことがあった。
「(私が何回か失敗を続けていて)また失敗したら、今度は韓国に帰ってもらうから」
先輩は茶化して言っていったのだが、言われたこちらは愕然としていた。私は日本で生まれた在日三世で、親も祖父母も日本にいる。韓国には帰る家などないのだ。ああ、この先輩はそもそも在日韓国人三世という人種のことを何も知らないのだな……。
私自身は在日韓国人であることでひどい差別を受けたことはない。時代だと思う。
しかし一方で、私自身が日本人のように装えることで、マジョリティに属しているというつもりになり、本来であれば気づく/知るべきことを素通りし、取りこぼしてきてしまったことがたくさん(現在進行形で)あったのではないだろうか?

本とは何だろうか?
このことを最近よく考える。
大学生までは小説ばかり読んでいた。特にSF、ミステーが好きだった。ここではないどこかに憧れ、物語に没入することを望んだ。
反対に、最近はエッセイや詩、旅行記を読むことが増えた。現実と地続きの本を好むようになってきた。学生時代であれば詩集など絶対に買わなかっただろう。こんな余白だらけの本が、なんで2、3千円もするんだ? と意味がわからなかった。
詩を読むことには二重の意味がある、と今は思う。一つは頭に余白(空白)を作るため。ぽっかりとした心地を味わい、何も考えない時間を作る。そうして自分をリフレッシュする。もう一つは自分の核心に触れる言葉と出会うためである。時として、これは自分のために書かれた言葉だ、と思うような一文と出会うことがある。そういう言葉に出会ったとき、詩に限らず、本の言葉は自分の芯にまで届き、響く。

私たちが本を必要とするのは、あるいは本によって救われるのは、本を書き残した人=本のなかで生きている人が未来を、つまり私たちのことをまなざしているからなのだと思います。当人にはその自覚はないかもしれませんが、そもそも書き残すという行為には「未来への意思」が内包されています。

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p241より

どこかの誰かの書き残した過去=本が、どこかの誰かのもとへ届き、読まれ、「これは私の(ための)物語/過去=本である」と感じるとき、たしかにそこには希望が生じています。

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p243より

本は希望である、と関口さんは言う。だから本屋は過去からの希望を現在につなげる場所であり、店を訪れる誰もが安心していられる場所=ユートピアを目指さなければならない。ベストではなく、常にベターを求めて更新し続けること。そうして歩みを止めないその姿勢そのものがユートピアである。
一人ではとても辿り着けない場所だ。けれど私たちは一人ではない、と関口さんは言う。本を作る人、売る人、買う人……。そして、本を書いた人。過去、現在と全ての人がつながっていて、未来への希望の光となる。
反差別・反搾取。
本屋lighthouseでは、今日もその営みが続いている。

「希望があるとするなら」——と私たちは日記に書いた——「それは私たちのなかにある」

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p245より

この私たちに、私も、あなたも、なることができる。
関口さんはユートピアを目指すためには、共有知と巨人の肩に乗ることが大切だ、と説く。共有知とは、字の通り情報を共有することで、常に情報を最良のものに更新していくこと。本屋だけでなく、書き手だけでなく、出版社だけでなく、そこに読み手である私たち読者も積極的に混ざり、相互間で知識を高め合っていく。そして巨人の肩とは、過去から連綿と続く本の歴史、膨大な数の書籍、その叡智の手助けを受けること。
ひとは一人では生きていけない。
一人では気づくことすらできない。

完璧なユートピアは存在しない。
完璧だ、とうぬぼれた時点で、それはもうユートピアではない。

ゆえに、灯台は光りつづけます。(p11)

『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』p11より


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