2章 『週刊文春』取材録音データ

私の受けた取材

2018年12月20日、私は『週刊文春』の田村栄治記者の取材を受けた。

彼は元朝日新聞記者で、昔、私が地方でおこなった写真展を取材してくれたことがあると言っていたが、私にはその記憶は残っていない。2004年、その田村氏は『DAYS』創刊の話を耳にして協力を申し出てくれた。私は当初は彼にトピックスの記事を依頼していたが、その後は主に校正を担当してもらい、月に1日か2日、デイズ社に来てもらっていた。だから彼の名前は、『DAYS』のほとんどの号では奥付に「編集協力」として他の校正者や協力者の名前と並んで書かれており、いわば「内輪の人間」だった。

デイズ社の最寄りの駅で私の出社を待ち受けていた田村記者は、私から性被害を受けたという複数の女性たちからの告発があった、と私に告げた。田村記者は、私への取材の前に女性たちへの取材を済ませていた。私への取材は週刊誌発売日のほぼ1週間前だったから、記事はすでに完成に近いものが作られていたはずだった。私に取材したのは、『週刊文春』が被害者の言い分だけを聞いて記事にしたのではなく、加害者の言い分も聞き、裏をとった上で記事にしたというタテマエのためだろうと、後に私が相談した大手出版社の危機管理責任者は私に伝えた。

1時間余り、私は田村記者の取材に応じた。彼が私に告げたことは、このときから10年ほど前のできごとが中心だった。しかし田村記者の発言内容と私の記憶している内容が異なる点は多かった。そのことは、取材時に彼に伝え、その日のうちに、デイズ社の顧問弁護士の森川文人氏と相談し、次のような文章を彼宛に送ってもらった。

田村栄治 様

当職は廣河隆一(以下、「通知人」)の代理人として下記の通りご連絡します。
                記

本日、通知人は、貴殿より取材を受けました。その際、貴殿から承った話には、その際もご指摘しましたが、事実と異なる点が含まれております。
そのまま事実の異なる形で公表された場合には当方としましても名誉毀損等として法的手段での対応をせざるをえません。
この点は、ご了知おきください。                           

弁護士 森川文人

この文章は田村記者だけではなく、内容証明をつけて編集長にも送るべきだったと、後に私は後悔した。無視されないようにである。

録音データ

私はこのときの録音データを見ていただきたいと思う。それは田村記者が私の取材をおこなったときに、私が自分の発言を記録しておくために取ったものだ。私はこれをこういう形で公にすることは考えていなかった。

取材時にノートにしろ録音にしろ記録を取らない記者はほとんどいないだろう。しかし許可を得ない録音は問題になることもある。だから多くの場合記者たちは隠し取りをしている。

さらに「言った言わない」が争点となる問題では、編集長を納得させるためには、録音データが役に立つ。少なくとも記者がでっち上げた話ではないことを信じてもらえる。

田村氏は取材の半ばから、「メモを取っていいですか」とわざとらしく私に尋ねてノートを広げたが、そこまでメモも取っていないとは考えられない。彼は最初から録音していたと私は考えている。

そしてこれから何らかの取材を受ける人に対しては、必ず録音されることをお勧めする。自分に都合が悪いことでなくても、自分が何を言ったのか、記者が何を言ったのかという記録を自分で持っておくことが必要だ。

私にとってこの録音データは、後に「当時私が事実と認識していたこと」と、「『週刊文春』が事実と認識していたこと」がどのように食い違っているかを調べるためにはどうしても必要になった。

私は、取材を受けた時に録音していたことを、小さな幸運だったと思っている。なぜならまったく記録もないままだったら、私の「犯罪」は「あからさまな暴力」つまり物理的・身体的暴力によるものだと誇張されたまま、それを正すすべもないままになったと思われるからだ。『週刊文春』に書かれたことは、記事の文字どおりに解すると、物理的・身体的暴力があったことになり、刑事罰にかかわる問題とされる可能性があり、その場合は私の逮捕につながる可能性もあった。だから女性を取材した田村氏が、私に伝えた記録が手元にあることは、私にとっては大事なことだった。

ただし女性の発言部分はあくまで田村記者をとおして私に伝えられているので、女性の直接の発言ではない。女性が話したことと記事とが一致しているのかいないのか、話が加工されているのか否かは、私には知ることができない。だから『週刊文春』に女性の発言だと書かれた内容に責任をもつのは、あくまで田村記者と担当の竹田聖編集者と加藤晃彦編集長であり、当の女性ではない。そのことを心に留めて読んでいただければと思う。

しかし書かれた私の問題については、私はきちんと考えていく責任がある。そのために整理しなければならないのは、私が「何をしたか」だ。そして「週刊誌に書かれたことは事実かどうか」だ。そして事実であることに対しては、どのように受け止め、被害者にどのように対応するかということだ。

私の自粛生活の間に、親しかった友人や仕事上の仲間のほとんどが私から離れていった。その人たちを責めるつもりはない。『週刊文春』に大きく取り扱われた記事があまりにも生々しいため、ほとんどの人にとっては、耳にも目にしたくないことだったからだ。

だからこそ余計に、記事内容は本当だったのか、私は可能な限り詳しく取り上げたい。さらに記事内容があたかも唯一の「事実」として、他のメディアや世論を味方につけて、一人歩きして広がっていくことの恐ろしさに関しては、きちんと訴えてよいのでは、と私は思っている。

ここではまずは取材時のやり取りを紹介して、その取材がどのように記事に反映されたかを書きたい。ただこの録音データには、女性のプライバシーに関する箇所が多くあり、個人が特定できる情報も多いため、そうした箇所が含まれる部分は削除してある。ただし私を告発した具体的な内容にかかわることについてや、田村記者の発言が大きな意味を持つ場合は、可能な限り詳しくデータを起こした。録音されているやり取りは引用で記した。そして状況理解のために必要と思われたことは( )の中に私が書き込んだ。実際に発表された『週刊文春』の記事は、ゴチック体でそう断ったうえで紹介している。

性被害を打ち消した女性

カフェで田村記者は次のように切り出した。

田村 単刀直入に言いますが、デイズに出入りしている女性たちが、広河さんに深刻な性被害を受けたという話を、被害者から直接聞いております。
広河 いつのことですか。
田村 2008年、09年。
広河 10年くらい前の話ですか。

(私への取材のとき、田村氏は、『週刊文春』記事では3人目に登場することになる智子さん⦅週刊文春による仮名⦆の話から始めた。ここでは取材を受けた順で報告する)

田村 震災前の話も後の話もあります。性被害もありますし、放射能汚染の高いところに自分の意思に反して連れて行かれたという話もあります。
広河 1番大きな問題というのが、放射能汚染の所に行った人で、その人が僕の性被害を受けたと言っているのですね?
田村 いえ、その方は性被害については、ぼやかしている。

(彼は彼女の性被害を打ち消した。彼が私に「深刻な性被害を受けた」女性たちのことで取材を始めたはずだったので、私は困惑した)

広河 ぼやかしているのはどうして? 
田村 まあその方は性被害は……。その方ではない方で。
広河 汚染のひどい所に入ったと訴えている人は、性被害とは関係ないのですね?
田村 その方は、今回のお話と関係ないです。
広河 なんで関係ない人のことをおっしゃったんですか、今。 
田村 性被害というのはその方じゃなくて、ほかの方……
広河 性被害の話に、どうして性被害でない話をしたんですか?
田村 ……

しかしそれから1週間後に発行された『週刊文春』の記事では、この智子さんは、性暴力を受けた中心的な被害者3人のうちの1人とされていて、6ページの記事のうち、1ページ以上のスペースが割かれていた。私が想像するに、準備していた原稿を私の取材後に書き直すには時間がなかったし、全体に構成が変わってしまうため、準備原稿のとおりにしたのだと思う。

広河 そのこと(彼女への性暴力)が問題になった時に、(私を批判した人たちに対して)僕は絶対やっていないと言ったんですよ。
田村 性被害のようなことをやっていないと。
広河 しかし彼女が性被害だと訴えて、周りの女性たちが僕に猛反発して。僕はその人には手も触れていないし、一切何もしていないと言った。そして1年後に僕がスタバにいるときに、彼女が現れて、(前の席に座って)「あの時は申し訳ないことをしました」と謝った。そのことは聞いていますか?
田村 そのディテールはないですが、広河さんが、女性が謝ったと言っているということは聞いています。
広河 本人に会ったんですね。それなのに確かめなかったんですね。
田村 その方は本人の口からは言っていませんでした。
広河 でも確かめなかったんですか。「広河はあなたが謝っていましたと言っていた」と。
田村 その方の性被害は僕は問題にしていないんですよ。その方は放射能の汚染地に行ったことが問題で。

田村氏の報告では、この人は被害者なのかそうでないのかわからない。この段階で、取材を受けた女性の発言がどのように記事にされていくのか、大きな問題があることが予感された。ここまでで録音データは約4分20秒を費やしていた。私は釈然としなかったが、放射能汚染地の話に移ったので、彼女をなぜ福島取材に連れて行ったかについて話した。しかし話はいきなり福島の現地の話に移ったので、なぜ福島に行くことになったのか、そのきっかけの話から始めたい。それは彼女を撮影することになった話とかかわってくる。彼女は福島からデイズ社に戻ったとき、そこにいた社員やスタッフに対して、私からセクハラ被害を受けたこと、つまり私に「あなたの裸はきれいだ」と言われたと訴えた。

写真はどのように撮影されたか

広河 彼女は……「あなたの裸はきれいだ」と僕に言われたと言った。それ自体が大変なセクハラの言葉だということで、みんな僕を責めた。
田村 撮影はしていないということですか?
広河 撮影はしましたよ。
田村 したんですか?
広河 もちろんです。なぜかと言ったら彼女はプロのモデルさんですから、あなたの会った人は。日本でより外国で仕事をしている人です。あなたを撮影するには費用はいくら必要ですか、と聞きました。その時彼女は、自分を原発の取材に同行させてくれるなら、撮影してもらって結構だ、費用はいらないと言いました。だから撮影しました。

私はその数年前に新橋の美術ギャラリーの依頼で、ヌード写真の展示会を開催している。オーナーは気に入ってくれ、新しい写真ができたらまた展示をさせてもらいたいと言ってくれた。だから私は、いい写真ができたら展示したいと考えていた。なお私はジャーナリズム関連の仕事では本名を用いているが、他の分野の仕事のときはペンネームを用いることもある。

広河 そのときヌードモデルさんだから、(私が)撮影するときに「あなたの裸は美しい」と言うのは当たり前のことです。この時彼女が言ったのは、海外で仕事をしていることを親には内緒にしているとのことでした。だから後で僕が(人々に)責められた時も、(彼女がプロのモデルだと、人々には)言わなかった。
……僕は彼女に指1本触れていない。そのことはみんなに言いました。……これ以上プライベートなことは言いたくない。私がみんなに(セクハラを)問い詰められた時にも、言わなかった。

言わなかったというのは、彼女がプロのモデルであることや、「あなたの裸は美しい」という言葉は、モデルとしての彼女の撮影時に私が発した言葉だということや、海外で出版された雑誌に彼女のヌード写真が掲載されているのを私に見せてくれたことなどを、私からはみんなに言わなかったということだ。しかしあのとき私が彼女のために配慮したつもりになっていたことが、かえって問題の理解を混乱させたと今は思っている。さらに彼女のことは『検証報告書』でもすでに発表されており、ここまでのことは一部書くことにした。

田村 それから(彼女は)裸の写真についても、なぜ撮られなければならないのかと。
広河 嘘ですよ、それは。
田村 それは、広河さんの説明からすれば、まったくそうだと思います。ただ、彼女はそういう説明をしているし。
広河 ヌード写真を撮られるのを嫌がっていたと言っているのですか?  
田村 そうではない。撮られた目的というのは、プロとして発表するわけじゃないですよね。
広河 わからないですよ、それは。そういうチャンスがあるときには、確実に、こういうのを発表するけどいいかと、その許可を取るということで、彼女にそれ(写真データ)を渡しているし、肖像権という話もしている。……本人にとっては撮られることは、むしろ誇りに思っているような人でした。(このとき撮った)写真に関しても、彼女は非常に評価していた。
田村 彼女がどういう言葉で評価したか、覚えていますか。
広河 そんなの覚えていないですね。僕は、写真をひとつひとつ見ていって、これは消そう、これは残そうねと。
田村 彼女と。
広河 そうです。彼女自身も、これを残したいからと言っています。
私はヌード(撮影)も大事な仕事だと思っていますから。仕事だけじゃなく、写真の質とかクオリティの問題としても、ヌードも大事だと僕は思っています。何で撮るのかと聞く人は、初めてです。
田村 個人的にはヌードである必要は、何もないのではないかという気がします。そうでもないんですね。
広河 あの人がヌードモデルだったからです。
田村 それは、この人ですよね。少なくとも私は、他の2人も撮られたと言っています。この人は、プロのモデルでも何でもないと思います。
広河 嫌がっているのを撮ったんですか?
田村 嫌がっていたかというと、どちらかと言うと嫌がっていなかったようです。ただなぜだろうという気持ちがあったと僕は聞いています。なぜ広河さんは裸じゃなければ駄目だったんですか?
広河 裸じゃなきゃダメだなんて僕は言っていません。これ以上その質問には腹が立ちます。じゃ自分で考えなさいよと思いますけど。あなたの中で女性の裸に興味がまったくないんだったら別ですが。
田村 ではやめましょう。この話は。

このやりとりは、『週刊文春』では次のような記事になった。

――広河さんに裸を撮られたと話す人は3人います。……裸じゃないとダメなんですか。
「その質問には僕は非常に腹が立ちます。あんたの中には、女性の裸に対する興味がまったくないのか」

もう少し全体がわかるように報告しておこう。

ここまでの録音データによって、ヌード写真の撮影については私がいきさつを述べたつもりだ。そこではプロのモデル女性と撮影交渉をして、彼女が出した条件を守って撮影したことを話した。しかし記事には次のような、まったく別な話が書かれている。

当日、都庁付近などで道行く人々の撮影をした智子さんは、広河氏とともにホテルの部屋に戻った。すると広河氏から「変なことはしないし、どこにも公表しないから君のヌードを撮りたい」と言われたという。

「これからお世話になる師匠なので断りにくかったですし、どういうふうに撮られるのか興味もありました」(智子さん)

記事には撮影の交渉についての話や、彼女がヌードの仕事をしているという話や、福島に連れて行ってくれれば、撮影料はいらないと答えた話や、ヌードモデルとして海外の雑誌に掲載された彼女の写真を私に見せたことなどはいっさい書かれていない。これは前述のとおりだ。

つまりそうしたことを書いたら、「被害者」智子さんの記事が成立しないという編集部の都合があったからだろう。

デイズ検証委員会のヒアリングを受けてこの問題を問われたとき、私は田村記者に述べたのと同じことを話した。しかし『検証報告書』には、女性が私に見せた雑誌掲載写真はヌードではなかったと彼女が言っていると書かれた。プロの写真家でなくても、ヌードかヌードでないかを間違う人はいないだろう。検証委員会はなぜその写真を確認しなかったのだろうか。

撮影した写真のうち、私か彼女か一方でも気に入らないと考えた写真は、彼女の目の前でデータを消去している。そして残った写真をCDに焼いて彼女に渡したときに私は、彼女がポートフォリオとして私の写真を用いてもいいと伝えている。写真用語でポートフォリオとは、自分の写真を小さな作品集として作ったもので、モデルやデザイナーや写真家は、自分はこのような作品ができるということを見せて、宣伝し、仕事を得るために用いるのだ。

しかし記事にされたのは、私が単に個人の好奇心でヌード写真を撮りたがったということを強調するための言葉だ。私が「どこにも公表しないから君のヌードを撮りたい」などと言う必要はないし、言ったこともない。むしろ彼女には、発表の機会があるときは、彼女にも伝えるとはっきり言っている。

私はその時点では発表媒体はまだ決まっていないことを告げたと思う。美術ギャラリー展のことは彼女には話していない。なぜならそれはどのような写真ができるかにかかっているし、ギャラリー側に見せてから決まることだ。だからギャラリー展のことは言わずに、今はまだ発表機会がなくても将来にそうした機会が生まれるかもしれないと話した。

田村記者がなぜヌード写真の撮影の話にこだわったのかは、発売された『週刊文春』の記事を読んでわかった。そこでは写真誌『ナショナルジオグラフィック』などに寄稿していた写真家がアシスタント希望の女性たちのヌード写真を「私的なヌード撮影を迫っていた」として告発されたと書かれていた。だから田村記者は私の撮影も同罪だと言うために、「どこにも公表しない」、つまり単に「私的なヌード撮影」であり、「趣味」の撮影であり、「仕事ではない」のに撮影したという話にこだわったのだと思う。しかし前述のように、彼は『週刊文春』には、彼女がプロのモデルだったことや、撮影が女性との撮影交渉の後に、許可と同意のもとでおこなわれたことは書いていない。書けば彼が用意した筋書きが成立しないからだ。

田村記者は『週刊文春』に次のように書いている。

こうしたヌード撮影は当事者間の合意があれば問題ないと考える人もいるかもしれない。しかし写真を職業とする者が立場を利用して私的に求めるのは「職業倫理にもとるセクハラ行為」という認識が、欧米などのメディアで活動する写真家たちの間では確立されている。

田村記者は、彼が記事に書いたことと、私の場合のように撮影の合意が交わされ、それに基づいて撮影することを同じとみなしている。そして「『職業倫理にもとるセクハラ行為』という認識が、欧米などのメディアで活動する写真家たちの間では確立されている」、つまり「セクハラ行為とされるという認識が確立されている」と言う。これはいくらなんでも言い過ぎではないだろうか。

特に芸術の分野での撮影が「私的」なものか「公的」なものかなどと問うことが可能なのだろうか。デッサンなどの習作は私的なものだとして問題になるのだろうか。画家は描いたヌード作品が売り物になった時だけ仕事と認められ、売れなかったら私的な作業をしているとみなされるのだろうか。デッサンという私的な過程の積み重ねも、大作につながったりする。死んだ後に脚光を浴びる人は、一生を私的なあがきで過ごすことになるとしても、その理由でモデルを描くことをセクハラと呼ぶのだろうか。

撮影の交渉があって、モデル側の条件を了承することで撮影に至った場合でも、セクハラ行為とされるという認識が確立されている、ということも聞いたことがない。セクハラはあくまで撮影を逸脱した行為で、かつ相手の了解がなかった場合にだけ言えるのではないだろうか。

ではどうして「……性暴力を告発する」セックス強要、ヌード撮影 7人の女性が#MeToo 」というタイトルのもとで、智子さんのことを書くことが可能なのか。

汚染地の撮影

広河 あのとき私たちは何人か(5人)で現場を回る仕事(取材)があった。それで本人が強く希望したので連れて行った。

福島取材に彼女が行くことになったのは、彼女の希望であり条件だったことがわかっていただけると思う。『週刊文春』には次のように書かれている。

智子さんによると、12年5月末、広河氏のアシスタントとして、福島原発事故の被災地の泊りがけ取材に同行した。

わざわざ「泊りがけ取材」と書くのも、『週刊文春』らしい。若い女性を伴った取材だから、意味ありげに「泊りがけ」と書いたのだろう。であるなら「ただし泊まった宿は別々だった」ときちんと書いてほしかった。しかも宿は警戒区域外であったと。田村記者によれば、智子さんは私に福島の取材に「連れていかれた」と主張していたと言うが、私には彼女がそう言ったとは信じられない。

許可のない出入りが禁止されていた20キロ圏内に入った時、私たちの1行は5人だった。私は事前に彼女に伝えた言葉を田村氏に言った。

広河 何かしらのレベルを引いておこう、一応5マイクロシーベルト毎時以上のところには、初めてだし行かないようにしようと言った。5というのはたまたまの数字(一応の基準であり厳密ではない数字)です。人によって(放射能の影響は)違うから。

風が吹くだけでも放射能値は変わる、と私は田村氏にも伝えている。チェルノブイリ原発を訪れた人々が視察する場所は、風向きや、原子炉建屋内の工事によって漏れて出る放射能値が変化し、5~50マイクロシーベルトくらいになる。近くのプリピャチ市内ではさらに汚染値が上がる場所もある。

広河 それで(福島の)現地に行った。私たちは案内人の人と車で何人かで回っていた。彼(案内人)としては、(私たちが)ジャーナリストとしてここに取材に来たなら、ここ(原発が見える場所)に来たかったのだろうと考えて、私たちを連れて行ったのです、原発の近くに。それでみんな喜んで写真を撮った。原発が見える場所はほとんどなかったから、その頃はね。
彼女は「怖い」と言ったので、「じゃ車の中で待っていなさい」と言った。

チェルノブイリ原発の2、3キロ先のプリピャチ市には、18歳以上の男女は入る許可が得られるが、昔ある母子を同行したとき、娘さんは20歳を超えていて、車の外に出たがっていたが、車の中で待機してもらった。空間線量は心配ないが、風が強く乾燥した時期だったので、私はほこりとともに吸い込む放射能には気を付けたほうがいいという判断をした。

智子さんを連れて行ったとき、ほこりが舞っていたわけではなかったが、「怖い」と言う彼女をより安心させられるならと、彼女にも車で待つことを勧めた。このことについても私は田村記者には話している。しかし田村氏は私を批判した。

田村 人権侵害だということです。僕が話を聞いている範囲においては。本人も何ミリシーベルト以上のところには連れて行かないと言われていたのに連れて行かれたと。
広河 ミリではありません。マイクロです。

彼女や田村記者が信じていた放射能の値は、私が智子さんに告げた単位と1000倍違う。それなら怖がって当たり前だ。毎時数ミリシーベルトという値の場所には、特別な防護服とマスクをしても、近づいてはならないと言われている。ガンマ線はマスクや防護服では防げない。ちなみに私は事故時に、原発建屋から3キロほどの距離にある双葉町役場を取材したが、その2011年3月13日午前のこの付近の放射能値を東京電力は隠していた。しかし私の持っていた毎時100マイクロシーベルトまで測定できる器械と、友人が持っていた毎時1000マイクロシーベルト(=1ミリシーベルト)まで測定できる器械は振り切れていた。東電がこの時間帯の放射能値が毎時1500マイクロシーベルト(=毎時1・5ミリシーベルト)だったと発表したのは事故から2か月後だった。

私が智子さんを伴って原発の取材をしたのは事故からかなり後だった。その頃にはミリシーベルト毎時の単位の放射能は、原子炉建屋の内部以外は、2号機排気塔のすぐそばでしか計測されなかったはずだ。さらにこのころには、少なくない数の女性ジャーナリストたちも、警戒区域内での取材をおこなっていた。

東京に戻った後、彼女は「放射能の危険なところに連れていかれた」と、社員やボランティアに訴えた。

広河 僕の周りにいた(当時の社員やボランティアの)女性たちは、彼女の説明に、30分や1時間くらいなら、それほど(危険だと)反応しなかったわけです。むしろ(原発近くに行って取材できて)ラッキーといった(うらやましがった)人ばっかりだったと思います。それで彼女は今度は、(私を攻撃するため)僕がセクハラをしたと言った。

このときの話がそこにいたスタッフやボランティアによって、噂として大きく広がった。多くの人が私のセクハラの噂を聞いたと言っているがそれはほとんどこのときの話だった。

田村 いや、その方はセクハラについて話したくないということなので。
広河 だけど(彼女がみんなにセクハラ被害を訴えたので、私は)みんなからやったやったと言われるような状況になった。
……私が彼女に言ったことで、ひとつはっきり覚えていることがあります。「あなたを連れて行ったこと自体が間違いだった」と言いました。メールじゃなしに、口頭で言っています。すると彼女は、すごい怪訝な顔をしました。
田村 そのことを広河さんは後悔していますか。
広河 後悔しています。だからあなたを連れて行ったことが間違いだったと、本人に言いました。

記事には次のようにも書かれていた。

広河氏は放射能の汚染度が高い地域には行かないと智子さんと約束していたが、現実には放射線測定器のアラーム音が鳴り響いても、引き返そうとしなかったという。

ここではアラーム音を毎時何マイクロシーベルトに設定していたのか書かれていない。

アラーム音は、使用者がそれぞれ自分で定めたレベルに設定するものだ。そのレベルは取材の目的によるが、私は、余裕をもって毎時1マイクロシーベルトに設定することが多い。音が鳴った瞬間に取材を中止して引き返さなければならないような線量に設定することは、ほとんどの人はしていないと思う。

私の責任

ここで私は自分のほうの責任を認めておかなければならない。

まず第一に私は彼女の上司として現地を訪れており、あらゆる問題は最終的には私に責任がある。

そのひとつは、準備段階の問題だ。私は彼女が取材の希望をしたことなのだから、ある程度は被災地取材について、自分で初歩的な勉強をしているものと思い込んでいた。そしてこの取材についてレクチャーや注意点を示しておかなかった。さらに取材に加わることで守らなくてはならない点を、書式で確認しておかなかったことである。彼女の予備知識についても、把握しておかなければならなかった。

そして放射能には、ここからは安全で、ここからは危険という「しきい値」というものが実は存在しないことも、私は彼女にきちんと説明しておかなければならなかった。

かつてチェルノブイリ取材では、取材でのリスクの責任は会社は負わないという書類にサインして、それでも行きたければ自分の責任で参加するようにと約束してもらっていたものだった。そのようにしていたメディアも多かったと聞いているし、まして私のようなフリーランスに対してはそのようになっていた。

ほとんどの保険会社は、放射能汚染や紛争を、保険の該当項目から外している。事故があっても保険は下りない。だから会社は、本人が自分の意志で行くのだという文に署名をしてもらっていた。

しかし私は、本人が行こうと希望する限り、当然そういうつもりでいるだろうと思ってしまっていた。汚染地でも警戒地域が、どんどんせばめられ、許可なくしても入ることができる地域が広がっている時期だった。このとき私たちが立ち入った多くの場所も数か月後には許可が必要とされなくなっていった。そのような過渡期の出来事だったという意識も、私に彼女への配慮と判断を甘くさせたのかもしれない。

ふつう取材でこうした場所に行こうとする人は、これまで知っている限り、取材のリスクと、目的の利益を比べて、自分の物差しを作る。私の取材についてくるのだから、私は彼女は私の物差しで来るのが当然と考えてしまっていた。しかしその物差しといっても絶対というものはないし、刻々と条件が変わることがある。そのリスクの責任を私が負うと約束しても、負いきれない。私には責任が取りきれないので、それでもいいなら付いてきてもいいですよ、というくらいの約束しかできない。そう伝えるべきだった。

そして安全の基準などど言って、毎時これくらいの放射線量の場所には立ち入らないようにしよう、と伝えたことが大きな誤解を生んだ、私は一応の目安で言っていて、彼女はそれは安全と危険を分ける絶対の境界線のように受け取ってしまったと思う。しかもその時彼女は放射線の単位を1000倍に判断していた。

それらすべては、現地での責任者である私の問題だ。

日本では年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを超える場所は居住制限区域とされ、また年間の積算放射線量が50ミリシーベルトを超え、5年経過後年間積算20ミリシーベルトをくだらない場所は、帰還困難区域とされた。毎時ではなく、年間である。制限の状況も年々緩くなり、今では年間20ミリシーベルトを超える場所でも、作物の生産が許されているし、原発のすぐそばを常磐線が走っている。国道6号線も通じていて、許可なく子どもや妊婦も車で通れる。私は決してそれでいいとは思わないが、比較のために国の考え方を出しておいた。

ただ私の反省すべき最も大きな点は「彼女の怖さをもっと理解してあげるべきだった」ということだ。このことで私は深く反省している。そして彼女が汚染地に行くにあたって初歩の放射能の知識や基本的な覚悟ができていないことを事前に知るべきだったし、それを共有して、場合によっては、取材同行はあきらめるように言うべきだったし、私も撮影をあきらめるべきだった。実際に彼女をモデル撮影した写真は、彼女が社内の人間の前で私に抗議したすぐ後に私は処分したため、すでに私の手元にはなく、彼女のもとにしかない。

田村氏は私を取材したあと、智子さんに該当する部分を一挙に削除するべきだった。なぜなら田村氏の勘違いで構成された記事だからだ。これは編集部内部でも議論があったと思う。『週刊文春』は、「文春砲」の一方で、それをぶち壊すような記事の作り方をしたことになる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?