3章 どこまで責任をとれるか?

麻子さんの話

『週刊文春』1回目の記事で2人目に取り上げられたのが、麻子さん(=『週刊文春』による仮名)だった。

記事では次のように書かれている。

(彼女は)写真展などのボランティアとして、編集部に足繁く通った。
3年生の時、麻子さんは一時的に学業に専念することを考えた。広河氏に相談すると「そんな中途半端じゃダメだ」とたしなめられたという。

このとき私がなぜ「中途半端」と言ったのか、どうしても思い出せない。本当にそう言ったのかとさえ思える。彼女が学業に専念することが、なぜ中途半端と思えたのか。きっと何かもう一言、ここでは省かれている言葉があるにちがいない。

私の記憶の中では、彼女はボランティアやアルバイトの形で活動していた。ボランティアは通常、イベントなどがあるときに仕事をお願いするが、1月の休み明けから1月末の、DAYS国際フォトジャーナリズム大賞の応募作品整理や翻訳の期間は、何人ものアルバイトなりボランティアの助けが必要になる。

しかしふつうは毎日そうした仕事があるわけではない。救援運動の経理などの仕事で働く人は、アルバイトとしてお願いしていたはずだった。

しかし大学の授業があるから、デイズにはそんなに来られないということで、私が彼女を「中途半端」だと決め付けたとしたら、なぜそう言ったのか、今の私にはわからない。献身的なところと性格の良さが、得難い人材と思って引き留めようとしたのだろうか。どちらにしろ私の「中途半端」発言があったのなら、私は間違っている。

彼女は気持ちが優しい分だけ、『DAYS』のイベントの繁忙期と授業が重なったときに、ボランティアを休んでは「申し訳ない」と思う気持ちがどんどん大きくなったのではないかとも想像する。そうであれば、私はもっと彼女の気持ちを理解して、必要なアドバイスをすべきだった。

ニュースの現場では、メディア・スクラム(集団的過熱取材)で、被写体に群がってシャッターを切る場合がある。この光景をフォトジャーナリストの仕事としてイメージする人も多い。殺気立っている人間の壁の隙間をこじ開けて前に出るというような気持ちがなければ、撮れないカットもある。他人の撮影の邪魔はしないように気を使いながら、同時に自分が撮影できるポジションを確保することは非常にむつかしいものだ。多くの人がこうした問題にぶつかる。

ある人が、警察とデモ隊の衝突の場面で、シャッターを切れなくて困って電話してきたことがあった。私は「体をかがめて這うように人々の隙間から前に出て、両者の間で半身に起こしシャッターを切り、怒られる前にしゃがめ」と教えた。その人は見事な写真を撮った。

麻子さんの場合は、被写体があっというまにフォトジャーナリストたちに囲まれてしまって、麻子さんがその外側でどうしたらいいかわからず戸惑っているのを見たことがある。優しい人には攻撃性が欠けている。それは同時に大きな利点でもある。そういう人はメディアスクラムで勝負する必要はまったくない。気持ちの優しさがなければ撮れないテーマを追えばいいのだ。

しかし記事には次のようなことも書かれている。

スタッフやボランティアに「仕事が遅い」「作業が雑だ」などと怒鳴り散らす広河氏の姿を繰り返し目にするようになったと、麻子さんは話す。「どこでスイッチが入るかわからないから、とにかく機嫌を損ねないように気を使っていました」

このあとに紹介する杏子さん(『週刊文春』による仮名)の記事の部分でも、私について次のように書かれている。

編集長の広河氏がスタッフやボランティアを大声で罵倒する場面をたびたび目撃し、次第に「逆らってはいけない人」と考えるようになった。

さらに『検証報告書』では、私は日常的に、そして四六時中怒鳴り散らしていたと多くの人が証言していると書かれている。この証言は重要な役目を果たしている。私から誘いを受けた時に断れず、仕方なく従うという意識を女性たちに持たせたというのだ。

まず私はこうした自分の性格の問題をも含めて認め、謝りたい。私の声は年齢が進むとともに大きくなったことには気づいていた。耳が聞こえにくくなって、さらに私の活舌が悪くなり、社員は「聞こえない」とは言うが、近づいてくれることも声を大きくしてくれることもないという状態で、私の声は自然に大きくなっていった。そして会議では絶えずイライラし、それが状態をより悪化させたと思う。

ただ私は、「罵倒する」ようなことは年に一・二度あるかどうかだと思っていた。それほど深刻な状況だとは思っていなかったのだ。私は本当にこれが杏子さんの発言かということも疑問に思った。

しかし私に好意的に対応していた人でさえ、私が大きな声で怒っていたのを目にしたと言っているのをみると、私が自分で意識しているよりも問題は大きかったようだ。そして社員やボランティアたちに、心からお詫びしたい。

そのうえでこのことで少しだけ言い訳をしたい。

私はデイズ社が入居していたビルの4階で仕事していた。私のほかに4階にいたのは、救援運動のアルバイト、広河事務所で写真や映像やパネルを整理するアルバイトなり職員、社長秘書という名のあらゆる仕事をする人である。しかしこれらのスタッフはいつも部屋にいたわけではない。むしろ私が1人でいることのほうが多かった。救援運動ではアルバイトの人が来て募金の記帳の仕事をしたが、それも1か月に1週間もかけず片付くことが多かった。

他のほとんどの社員は3階に机があった。総務、経理、営業、編集、イベントなどの職である。3階のその部屋の隣にはもうひとつ部屋があり、写真展のパネルや『DAYS』のバックナンバーの在庫などが、ここに置かれていた。ほとんどのボランティアはこの部屋で仕事をしていた。

だから私は、基本的には社員やボランティアとは、1日のうちたまにしか顔を合わせないことが多かった。四六時中怒鳴ることは、相手がいないから不可能だったはずだというのが私の反論だ。編集会議では怒ることもあったが、それも1か月に2回ほどしか催されない。そしてそのときの怒りの理由は、私が何度も注意していたことなのだが、編集部員が『DAYS』のバックナンバーに目を通していないために、すでに発表した企画を出してくる場合があったからだ。バックナンバーの目次だけのファイルを作るように私は言っていたが、それをした人は少数だった。あとは出版された号の反省会だが、これは月に1回だ。しかも叱ることはあるだろうが、絶えず怒鳴り散らしたという記憶はない。さらに私は頻繁に取材に出ていたため、会社にいないことが多かった。海外取材の場合は、数週間かかることもあった。私の不在期間を調べるのは簡単で、私が編集長から身を引く時に当時の新規編集長が作ってくれた特集号(2014年9月号)に、これまでの取材時期と取材地の年表が4ページにわたって発表されている。

客が来ているのも構わず怒鳴り散らした記憶がある。それは総務部員に対してだった。それは私の写真集『福島とチェルノブイリ』の発売日で、私の予定を私に告げないまま変更されたという理由だった。そのスタッフは抵抗して非を認めなかった。それで私は声をだんだん張り上げ、相手も負けじと声を上げ、怒鳴りあうようになった。後に本人と話したら、一方的に私が怒鳴るのではなく、お互いに声を張り上げていたとそのスタッフは言っていた。しかし周囲で見ている人たちには、私だけが怒鳴っていることとして記憶に刻み付けられた。そして老人のほとんどがそうであるように、相手の声が聞こえにくくなるにつれ、自分の声を張り上げるようになるのだ。お詫びしたいと思う。

しかもそれが四六時中であったとはどうしても思えない。

さらに私の記憶の中では怒鳴るにしても叱るにしても、すべて理由があるはずだと思っている。

写真の撮り方

麻子さんと写真の話に戻ろう。私が何度か開催したフォトジャーナリスト入門講座などでは、技術的な面ではたいした指導をしなかった。私自身、学校で写真を学んだことはない。

フォトジャーナリスト学校では合宿もおこない、そのときは、生徒たちのために指導者を呼び、その人たちにぴったり張り付いて撮り方を学んだ人たちが早く上手になった。

ただ私に「写真がヘタだ、ヘタだとけちょんけちょんに言われました」と麻子さんが言ったと『週刊文春』に書かれているが、私は、下手と上手の間には大した距離はないといった話をしていたと思っている。子どもたちに写真を教えていたとき、3日間で素晴らしい写真を撮れるようになったという話もしたことがある。また今フォトジャーナリズムの世界で知られている人の中には、若くから才能を示す人もいるが、ほとんどは、20歳代までは、あるいは30歳代までは、決して上手な写真を撮っていなかった。それは私も同じである。上手になるのがむつかしかったからではない。上手下手よりも大事なことがあると感じている人が多かったからだった。

『週刊文春』記事には私が麻子さんに、私のアシスタントにしてもいいが、そのためには体の関係が必要だ、と言ったと書かれている。

実はこの会話も、私の記憶には残っておらず、そのような言い方はしていないとしか言えない。

確かに、私と彼女には、上下の権力関係があったと言われたら否定しようがない。麻子さんにとっては、「いろんな感情がこみ上げてきました」と最初から悩んだというような発言もあるし、数年後に他の女性の出来事を知って「私も性被害を受けていたんだ」と気づいたという表現もある。

ただ、私のアシスタントにしてもいいが、そのためには体の関係が必要だ、と本当に私が言ったとは信じられない。後に出された『検証報告書』では「そのように言われたと女性は受け取った」というような表現がみられることを思えば、ストレートにこの言葉ではなくても、それに近いやり取りがあったと麻子さんは伝えて、それをこの言葉にまとめたのが田村記者と編集者の竹田氏だったと考えるほうが自然に思える。しかしたとえそうだとしても、そのように受け取らせるような言動の責任が私にはあったことになる。これは深く謝りたいと思っている。

しかしそのうちに、彼女がデイズ社から離れた長い期間があった。それは健康問題のせいであると耳にしていた。

田村記者による取材のとき、私は次のように答えていた。

広河 その人の生活でどのようなことがあったのかは知りませんが、体をこわして学校を休んでいると聞いて、心配して彼女の友だちに聞いたら、以前からの持病の病気のせいだと聞きました。今はその治療をしなければならないと聞いたことがあります。
田村 今も通院している。精神的なことですけど。
広河 それは僕のせいじゃないでしょ。通院されていた人はいますけれど。

この部分は、『週刊文春』記事では次のように書かれた。

――女性たちは傷ついています。
「僕のせいじゃないでしょ」

私は彼女の友人からは、「通院している」のは彼女の「持病のせいだ」と聞いていた。だから、通院は私のせいじゃないと話したのだが、傲慢なイメージのこの言葉が中見出しになった。

フォトジャーナリストの夢

その後、彼女がフォトジャーナリストとしての仕事をひとつでも発表できるようになる協力はしなければならないのではないかと、私は思うようになった。

それで私が久しぶりに声をかけたのが、海外で開催されるフォトジャーナリズムの大きな催しへの、アシスタントとしての参加だった。

アシスタントと言っても、そうした仕事があったわけではなかった。あくまで本人の気持ちの切り替えになればいいという気持ちだった。

返事は1か月以上なかったから、無理だったかと考えた。

彼女がやっぱり行きたいと返事をしたのは、出発の1週間ほど前のことだったと思う。そのとき航空運賃は当初の3倍に跳ね上がっていた。私は頭を抱え込んだが、個人で負担することにした。

文春記事には次のようにある。

広河氏に同行を呼びかけられたときの心境を、麻子さんはこう説明する。「DAYSで知り合った人たちは被災地で取材するなど活躍していました。一方私はといえば写真から離れ、引け目を感じていた。フォトジャーナリストへの道を歩み直す最後のチャンスかもしれないと思って、悩んだ末に『行きます』と答えました」

確かにこれは、これまでの遅れを取り戻すチャンスにすることができるかもしれないと私も考えていた。数千人のプロのフォトジャーナリストたちが、仕上げた仕事を持ってこの場所に集まるからだ。あとは本人次第だ。彼女の心に響く仕事をしている人に出会って、その人と仕事を『DAYS』に紹介することから始めればよい。

しかし私の誘いはあくまで善意でしているつもりだった。それがよくなかったと思う。形だけのアシスタントではなく、行きたければ本人が心の準備をして、仕事内容についてきちんと話し合い、気持ちを高める協力をするべきだった。それは智子さんの福島行きで私が反省するべきことと似ている。現場へ行くのに協力することは、私にとってはそれほど大変ではない。しかしその先は本人の自己責任にしてしまい、本人の未来がかかった出会いや学びに集中するのは本人の仕事だと考えた。それでまちがっているとは思えない。しかし今思えば、私はもっと大事な部分で協力することもできたはずだ。

しかしツキはなかった、彼女は現地に着いたときに風邪で熱を出したのだ。それでメインのイベントの仕事や出会いの機会はほとんど困難になった。

そして私は、風邪をひいた彼女を看病しようとしたつもりだった。しかし別の気持ちをもってしまった。牟田和恵氏のいう「勘違い」だった。記事には大きな間違いがあり、何人もの人がその間違いのまま引用しているが、今はそれについては指摘しない。

風邪が回復したのは、イベントの最終日のことだ。今回はイベントの記録を唯一の仕事として彼女に頼んでいたということがあった。しかし風邪から復活した彼女はそれを忘れて、他の人と話に夢中になっていた。今思えば、息が詰まるような日々と病気のせいで、彼女には、そうした瞬間が必要だったことには、気持ちが至らなかった。

私は彼女が自ら映像記録に取り掛かるのを待っていたが、他の人との話は終わらなかった。それで、私はキレてしまった。このとき、私は彼女に本当に怒った。

しかし『週刊文春』には、私との本当の決別は、その翌年だったと書かれている。

その翌年、後述する智子さんの被害を知ったことで、「私も性被害を受けていたんだ」と麻子さんは気づき、広河氏と完全に決別したという。

この文を読んで私は本当に驚いた。

これが、文春編集部による嘘が重なった末の矛盾した結論だ。田村氏によれば智子さんは性被害を受けていないし、そのように訴えてもいなかったのではなかったか。

それなのに麻子さんは、智子さんを見て、自分も「性被害を受けていた」ことに気付いたと書いている。そのとき私にセクハラの抗議をするために智子さんは会社に来ていた。そして私は麻子さんの目の前で、智子さんに対して、私はセクハラはしていないと言っていたはずだ。

しかし私は、麻子さんには嘘がないし、相手を貶めようとする気持ちもないと考えている。そして私はこのような結果になったことをお詫びしたいと思う。私のあってはならない無責任な性格が悪い実を結んだのだのだと思っている。

そして根本の責任としては、私が彼女に声をかけたことがある。それを私は真摯に受け止めたいと思う。そして彼女の幸せを祈りたい。それは智子さんもこの次に話す杏子さんに対しても同じだった。

私に向けられた批判の中心には、私が当時のことを「合意があった」と感じていることがある。私はいつも相手に同意を求めてそれが得られなければ前に進まなかった。それは『検証報告書』でも書いているとおりだ。そして私は相手が「YES」と言ったら「合意」は成立していると理解していた。

田村 もう1度確認させてください。これまでデイズに出入りした女性と性的関係を持ったことはあったと。その中で自分として相手が断りにくいとか、相手に断わらせないとかいう流れの中で誘ったとかという認識は。
広河 ないです
田村 合意のもとなので全く問題ないと。
広河 その人は(私に)強制されたと言っているのですか? 
田村 強制されたとは言っていない。僕の理解では、多分合意はあったと思います。本人としてみれば、拒絶したかったが拒絶できなかった、しにくかった。(そういう場合は合意はなかったというべきではないのか?)
広河 嫌がる人をそうしたらそうなるでしょうが。しかし僕の仕事に対してあこがれてる人が近づく人もいますね、それとは違うと僕は思っていますから。しかし立場を利用してその人をどうにかしたという意識は僕にはまったくないですね。
田村 職業に対して寄ってくる人がいるんだと。
広河 職業と言うより、僕のやっている仕事とか、僕の考え方ということでしょうね。
田村 それは広河さんそのものではないですか。
広河 僕にあこがれたり僕に魅力を感じたのではなく。職を利用したとは思っていない。
田村 僕の理解では、多分合意はあったと思います。本人としてみれば、拒絶したかったが拒絶できなかった、しにくかった。

田村氏のこの言葉が私には理解できない。拒絶したかったなら、合意と言わないのではないか、という疑問が私には残った。

さらに「僕にあこがれたり僕に魅力を感じたのではなく」の部分は、記事ではこう書き換えられ、ネット上でも拡散していった。

「僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって」    

つまり「ない」と私が言ったことが、「ある」と書き換えられていたのだ。たとえ私の考えが間違っていると田村氏が思ったとしても、人の発言を、真逆に書いて印刷物で私の発言として「」に入れて報告することは許されるのだろうか。

たとえ私には非があるとしても、『週刊文春』が何を書いてもいいわけではない。

杏子さんの話

田村記者が『週刊文春』誌上で取り上げた最初の女性が、杏子さんという仮名で紹介された女性だった。しかし今私が書いているこの原稿では、田村記者が私を取材したときの順に書いているので、最後に紹介するのが杏子さんになる。

私への取材のとき田村記者は、杏子さんがホテルの私の「部屋に行ったらすぐに関係を持たされた」と話している。

広河 強要したんですか?
田村 いや強要とは言っていません。本人は断る間もなくという言い方をしたんですが、広河さんそういうことは。
広河 断る間もなくそういうことをするってあり得ないですよ。

これは記事では次のように書かれることになった。

部屋に足を踏み入れた途端、杏子さんは広河氏にベッドへ連れて行かれた。恐怖で言葉を発せず、抵抗もできなかった。

まず記事の最初から『週刊文春』らしい様々な工夫が凝らされている。杏子さんは私と出会った当時(『週刊文春』には2008年)の年齢として20歳と書かれ、その数行後に、私のほうは、杏子さんと出会ってから十年後に『週刊文春』が発売されたときの年齢が書かれている。ちょっとしたトリックで、年齢差はさらに十年プラスあるように見える。実際の年齢差は明らかなのだから、姑息な工夫はする必要がなかったはずなのにだ。

そして田村記者は私には、女性は強要(があった)とは言っていないと述べ、さらに私が女性に強制したことはなかったと何度も述べているのに、実際の記事では、「強制」を意味する「恐怖で言葉を発せず」「抵抗できない」という言葉が、追加されている。

記事の中見出しでは「あっという間にベッドに」と書かれ、記事中では「あっという間にベッドへ移動させられ、抗えないままセックスが終わった」と書かれている。

実際は私の記憶では、私たちはホテルで30分ほどフロアカーペットの上に座って話をしていた。話が終わることろに、彼女に同じ質問を繰り返してしまったことを彼女に指摘されて恥ずかしく思ったため、 記憶にはっきり残ったのだろうと思う。座って話していた時間もはっきりと記憶された。

しかし記事には、「途端」とか「あっという間に」とか書かれた。それは、暴力性を強調するものだった。

文春記事には次のようなエピソードも書かれている。  

08年を迎えた頃、編集部から徒歩数分のマンションにあった広河氏の事務所に呼ばれた。中に入り、スタッフの男性と世間話をしていると、事務所にいた広河氏に突然、「お前たち、ここは談笑の場所じゃない! 出ていけ!」と怒鳴られたという。

「ここで見放されたら、ジャーナリストとしての道は開けないかもしれない。そう思うと頭が真っ白になりました」(杏子さん)

私にはこの記憶がない。しかし私が「談笑」と言ったのだとしたら、おしゃべりに花が咲いて、にぎやかになっていたのだろう。

私は、仕事をしに来たはずの若者たちが、私の事務所を談笑や交流の場所とすることを好まない。私は「事務所にいた」と書いてあるが、私がいる場所で、「談笑」するわけはない。私が帰ってきたときに、若者たちが騒いでいたので、私が怒ったのだろう。怒るのが当たり前、という時代はとっくの昔に終わったらしいが、自分の記憶にはなくても、今まで多くの人が私の怒りの被害にあったと訴えているのをみると、本当に申し訳ないと思う。

記事に書かれているように、怒られて泣きながら彼女が歩いているときに、携帯電話が鳴って私が誘い、ホテルに行ったという記憶はない。もしかしたらここでもいくつもの出来事がつなぎ合わされているのではないかという気持ちが払拭できない。そのつなぎ目に、作り話がもぐりこまされているのではないかと、確証もないのに、私はそう思ってしまう。そうだとしても、彼女にとってはいやな目に合わされたという思いがあったことは打ち消しようがない。謝りたい。

そのあと彼女は編集部内でセクハラにあったことを書いている。そして『DAYS』に来るのはやめたという。しかし何とか思い起こそうとしているが、記憶から消えている。その事実は思い出すことができないが、彼女が嫌な思いをしたことは本当だろうと思い、このことも謝罪したい気持ちになっている。


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