1章 週刊誌報道の「事実」が一人歩き

文春砲の威力

この章ではまず、週刊誌報道がどのように発信され、何を伝え、人々に何をもたらしたかということについて書いていきたいと思う。性犯罪の被害者と加害者がどのように扱われて報道されていくか、そしてそれがどのように広がっていくかを、知っていただきたいと思ったからだ。

2018年12月26日、『週刊文春』(2019年1月3・10日号)が発売された。タイトルは次のとおりである。

「世界的人権派ジャーナリスト広河隆一の性暴力を告発する」 セックス要求、ヌード撮影 七人の女性が#MeToo

私の心の中で、激しい混乱と、納得のいかない思いと、どこに向けていいのかわからない怒りが渦巻いた。その怒りは私自身に対しても向けられたが、整理できなかった。呆然とした判断停止を迫る消耗感が襲い、その中で私は、眩暈(めまい)のような状態になっていた。

私は女性に暴力をふるったり強要をしていないはずだ。相手がNOと言ったことはやっていないし、さらに相手がYESと言っていないことはやっていないはずだった。

それでも私は動揺や怒りを、いったん心の奥底にしまい込み、この問題そのものと真正面からきちんと向き合おうと何度か試みた。私は何をしたのか、そして何を責められているのか。しかしそれはうまくいかなかった。

なぜうまくいかなかったのか。それは『週刊文春』の記事の中に、どうしても「事実」と認められないこと、事実が誇張されていることが溢れているように思われたからだ。それが私の、加害と被害を判断する目を曇らせていた。

このように書けば、私が『週刊文春』記事のどの部分を「事実」ではないと考えているのか、そういう肝心なことを知らせることなく、私はなぜいつまでもぐずぐずしてきたのかと思う人もいるだろう。なぜ私は長い間、沈黙していたのかと。記事が間違いだと思うなら、なぜ名誉棄損で『週刊文春』を訴えなかったのかと。

さらに『週刊文春』だけではなく、デイズ検証委員会の報告書(以下『検証報告書』)もある、という人がいるだろう。10か月もかけて専門家がヒアリングをおこなって調査して、「事実」と認定したことで決着はついたはずだと。しかし私はこの『検証報告書』にも納得いかない点が多くあった。何よりも答えありきの姿勢で進められた検証には不信感をもっていた。

ここではまず私がなぜ沈黙してきたか、その理由をお伝えしたい。

沈黙を選んだ理由

私から見ると、『週刊文春』記事には、次の三つのことが混在していた。

① 私が「事実」だと記憶しているとおりのこと。
② 私が「事実」ではないと記憶していること。
③ まったく記憶にないこと。つまり「事実」がどうだったのか、判断もつかないこと。

まず③だが、これは私の記憶をたどっても、やった覚えがないことだから②とみなすべきかもしれないが、ここでは保留とする。これまでの場合、裁判になったら、検事が証拠を固めて私を起訴することになるのだろうが、最近の判例では、事件そのものが当事者しか知らない「密室」の出来事になる場合が多いから、被害者がこういうことがあったと告発したら、加害者として訴えられたほうが、そういう事実はないと立証しなければならない場合が多いという。本来は原告側にある立証責任が、被告側に求められる。これを「挙証責任の転換」というらしい。しかしやっていない人がやっていないことを立証するのは非常に困難だと聞いている。

また、記事の中には①に分類できることも多くあったことを、私は認めている。しかしそれが、あまりにも悪質な行為のように誇張されたり脚色された記事にされていると判断したとき、私はそれを②に分類した。

また消えてしまっていた記憶がゆっくり、あるいは時間をおいて何かのきっかけで甦えることもあったが、それは、文春が記述している記憶と真逆の場合もあった。

また私の記憶と異なっているからといって、被害者の証言には嘘があるというわけではない。私は弁護士から注意を受けたことがあるが、記事に被害者の発言として書かれたことが、すべて被害者にとっての「事実」であるとは限らないという。なぜなら記事は女性が記者のインタビューを受けた時から、記者と編集者そして最後に編集長のチェックによって、記事に仕上げられていく。その取材後のほとんどの過程は、女性の手を離れたところで進められる。

だから、これから何度も繰り返すことになると思うが、記事にもしも誤りと思われることがあったとしても、その責任を追及できるのは、被害者に対してではなく、編集部だということになる。

しかし私にとってこの問題は、単純ではなかった。事実か否かに焦点を当てて闘うというのが裁判だとしたら、私はそうせずに沈黙を選んだ。

私の沈黙には次のような理由があった。

二次被害と謝罪

最初はまず、「二次被害」の問題である。

記事の中の被害者の証言に対して異を唱えることは、被害者が嘘をついていると述べることになり、被害者の二次被害を生みだす可能性が大きいという多くの助言があった。この配慮が、沈黙の一番大きな理由になった。

週刊誌記事の報道内容に対して、納得できないことがあったとしても、それを指摘せずに、まず謝罪をするべきだという声もあった。これも二次被害という考え方に関係している。それは私にとっては驚きであり、たとえ世の中で「そういうものだ」ということになっていても、納得するのは難しかった。しかもそれを私にも分かるように説明してくれる知人はいなかった。

「二次被害を避けるために、口を閉ざすことは、自分の主張が間違っていたと認めることになるのではないか」ということは何度も自問した。しかし答えは出ていない。ただこの配慮が、沈黙の一番大きな理由になった。後半でも述べると思うが、「二次被害」という言葉は非常に大切だということは理解できる。しかしあらゆることに先んじて大切、という意味で語られることでは日本が突出している、という人もいる。

ほとんどの人は、ここで書いたようなことを教えてくれ、私はそれに従って、沈黙した。のちになって、被害を受けたという人が現れたときには、まずその人の言葉を信じることが大切だと、救援・支援運動では考えられていることを私は知った。被害を訴える人の支援をするために、その人を信じることが必要だということは理解できる。しかしそれが事実かどうかという判断を下すということは、困難であっても同じくらい大切なことではないだろうか。

人々は、私が自分の言い分を述べる前に、まず自分のしたことを自ら振り返って、反省すべきだと私に助言した。そして「週刊誌の中の、事実とは認められない記述に対しては、まず怒るよりも、事実と合致することをまず認めて、謝罪するべきではないか」と述べた。周囲の人が「まず謝罪」と言ったのはそういう意味だったのかもしれないと思う。しかし私がそうすることを躊躇した理由は、「一部が事実だ」と言った瞬間に、私が「すべてを事実だと認めた」とみなされ、そう攻撃されたことが何度かあり、私はそれを恐れるようになったからだった。

「まず謝罪」を迫る人々が多くなって、そうするほかないのかと考え始めたとき、私は法律関係者から、「謝罪は自白」という言葉があることを教えられた。事実と認めてないのに謝罪してしまえば、それを事実であると認めたことになってしまうというのだ。

元朝日新聞記者にこの問題を尋ねたことがある。その人の答えは、事実関係は裁判で明らかにすることではないか。いまおこなうのは謝罪だということだった。2021年末に起こった筑波大学教授の事件でも、大学側はまず謝罪をおこない、事実関係が明らかになり次第処分を決定するという声明を発表している。しかしこの時点では教授はまだ認めていないということだった。それでどうして謝罪ができるのだろうか。

「いま事実でないとこだわり続けて、気持ちが整理できなくて、謝罪ができなくても、沈黙して、考える時間をもつことはできる」、そのように私は周囲の人々に勧められた。そのとき相手に二次被害をもたらすか、自分がひとまず沈黙するかのどちらかしかないなら、後者を選ぶほかはない、と私は考えた。

それを受け容れて、私は東京を遠く離れて、山の中で自粛生活に入ることにした。

しかし私にさまざまな助言をしてくれた人々は、私が「何を」したと理解していたのだろうかと考えた。実際その人々は、『週刊文春』記事に書かれたことのほとんどを、事実だと信じていたのではなかっただろうか。であれば私はいっそう、記事のどこが正しく、どこが間違っていると思っていたかにこだわるべきだったのではないだろうか。私は何度となく、自分の「沈黙」という判断が本当に正しかったのか、という疑問に襲われた。

「事実」と「事実でない」ことが混在していたら、「事実」と思う点、「事実ではない」と思う点の両者を併記して、その理由を書くほかないと考えたこともあった。しかしそれさえも二次被害をもたらすとされる可能性はある。つまり記事の一部でも事実ではないと指摘することは、被害者を攻撃することになるからやってはならないと言われたら、あなたならどうするだろうか。私には答えが出せなかった。

批判と攻撃

週刊誌に書かれたことは、すでにほとんど100パーセントの事実として人々に伝わっていた。ふだん週刊誌の記事を疑いをもって見る人でさえ、私の記事を事実として受け止めていた。

私に向けられた批判や攻撃はすさまじいものだった。そしてその激しさは、孤立した自分ではとても対処できるものではなかった。私が「記者は、私が言ったことと違うことを私の発言として記事にした」などと言っても、その私の声に耳を傾けてくれた人はほとんどいなかった。「違うと思うなら、すぐに違うと言うべきだ」と私に進言してくれた人は、ごくわずかだった。私が『週刊文春』発売直後に「違う」と言い続けていたときに、それを支援してくれた人もほとんどいなかった。

その理由には、私が10年ほど前の多くのことを記憶から失っていたこともあった。そして記憶を取り戻すこともあったが、それはゆっくりとしたスピードだった。その間に私は嵐のような批判の中にいた。そして私は沈黙を選んで、山の中に入った。なぜすぐに言わなかったかと私に質問したジェンダー問題の専門家もいたが、その時はすでに週刊誌発売から2年がたっていた。私はひきこもる前に、こうした人々にまず相談すべきだったと考えたが、遅すぎた。

攻撃は特に身内のようなところから激しく起こった。それは外部からよりもこたえた。私は『週刊文春』で「人権派ジャーナリスト」と書かれて攻撃されたが、私を攻撃したのも「人権派」の団体や、「人権」を背負っている弁護士、知識人、ジャーナリストたちだった。彼らの多くは私の友人たちだった。そして彼らは「人権派」ゆえに、「被害者」を名乗った人を守ることこそ最優先でおこなわなければならないと考えていた。だから彼らはまず私に謝罪を求めたのだ。

私がかつて創設した救援団体も、例外なく私を激しく攻撃した。DAYS被災児童支援募金が中心となり建設した福島の子どものための保養施設「沖縄・珠美(くみ)の里」、1982年の難民キャンプ虐殺事件で保護者を殺されたことで84年に開始した「パレスチナの子どもの里親運動」、そして『DAYS JAPAN』を支援する「名古屋サポーターズクラブ」、私が設立時の代表だった「日本ビジュアルジャーナリズム協会(JVJA)」などだ。

彼らは、私との関係ゆえに社会から激しい攻撃を受けていた。「お前も知っていながら知らぬふりをしていたのだろう」と。これらの運動の人々は世の中の不正義を許さない性格を持つ人々であり、だからこのような活動に身を投じてきたのであり、そうした理由で私を攻撃した。中には真っ先に私を攻撃することが、救援活動を続けられる唯一の保証になったということもあったかもしれない。それに対して異議を唱える理由は私にはない。

私はその人々に、週刊誌内容の問題点、つまり私が実際には話していないことや、話した内容と異なったことが書かれていることなどについて伝えようとしたことがある。しかしほとんどの人がそれを私の「弁解」とみなし、興味を示さなかった。

もう一度考えてみれば「人権派」というのは、「被害者」とされた人をまず助けなければならないという反射神経をもつ人たちのことを指すと理解されており、そしてこの場合「被害者」とは女性たちだった。そこでは、たとえジャーナリストでも「本当かどうか調べること」よりも「本当と信じること」が優先された。二次被害の論理である。また運動などで私の身近にいた人々が私の悪い噂を広げる役割を果たしたこともあった。その噂は全くの嘘であることもあった。それを必死に説明したこともあったが、いったん広がった噂は、その人たちを経ることで、よけいに信頼性をもって広がったということもあった。

さらに「加害者」が弁解する姿は見苦しいことだった。この時、私は『週刊文春』に腹を立てていた。自分のことはさておき「なぜこんなことがまかりとおるのか」という気持ちは私の表情にもあらわれ、私に会った人はみんなそれを、自己保身の怒りだと受け取った。

今回のような問題が発生した場合、きちんとした組織であれば、週刊誌に書かれたことがどこまで「事実」なのかどうか、まずは徹底的に調べるのだろう。その上で、何に対しては謝罪をしなければならないか、何に対しては保留するか、何に対しては週刊誌に抗議するか考えて、きちんと対応しようとするだろう。しかし、そうした体制は、残念ながらデイズ社にはなかった。もちろんそうした会社に育てたのも私の責任だ。

もうひとつこの問題を考えるときに障害となったのは、私の記憶力の衰えの問題だった。私は10年前に何が起こったか、その多くを忘れていた。そうした私を、実際は知っているのにわざと「記憶がございません」と装っているにちがいないと疑う人は多かった。しかし私は自分にとって都合が悪いことだけ記憶を失っているのではなかった。自分にとって有利になることの記憶も失っていることを、後に資料を見つけ出して知ることもあった。

結局、精神的に混乱し追い詰められたとき、何が起こったのか考え直す時間をもつことは、自分がたった一人ででもできる、唯一の前向きな仕事だった。私が山の中の自粛生活に入ったのは、こうした状況の下だといえる。

その頃私は、「#MeToo運動」は、圧倒的な追い風のもとに「加害者退治」をしていると思っていた。しかし後に知ったことだが、実際に吹いていたのは、女性に対する圧倒的な向かい風だったのだ。実際には日本では、「#MeToo運動」に対する追い風の、数百倍もの力で、女性たちを被害者にする「加害の嵐」が吹き荒れていたと思う。それは今も同じだ。しかしこのとき、私自身はというと、自分に対する攻撃しか目に入らなかった。

自粛

そして自粛生活は、3年を過ぎた。

私はまず顔を隠した。都会を遠く離れた山の中といっても、バスで30分も行くと、喫茶店がある。あるとき客の年配の女性が私の顔を見てぎょっとしたことがあった。私は服装を変えるようにした。しかしまもなくコロナでみんなマスクをつけるようになった。私はほっとした。

しかし自分の名前をどうするかが大きな問題として残った。名前を聞かれて、本名を言うと、もしその人が私の名をネットで検索したら、山ほどの「レイプ犯」の記事が出てくる。しかも写真付きだ。

何かしら人の役に立てることをしたいと思い、認知症で行方不明になったという連絡を受けたらすぐに捜索を開始するボランティアの運動にかかわった。この時は本名を出せないことを責任者の人に打ち明けて、その原因も伝えて、かまわなければお手伝いしたいと言って、わかりましたと言ってくれた。しかし役場や教育委員会は責任を問われることを恐れている。仕事に就くにも証明書がいる。知り合って、私が自分のことを語ったら、そのあと連絡が途絶えたりする場合が圧倒的に多い。そして話は私の親戚や孫たちの学校にまで広がる。

私はたえず身をひそめていた。そうしたときにかつての友人を見かけ、意を決して相談したいとメールをした。しかし「まず謝罪でしょ」というのが返事だった。

これが3年間続いている私の自粛生活の中身である。

タイトルが与える印象

ここでまず、2回にわたる『週刊文春』記事のタイトル、つまり見出しをもう一度、書いておく。理由は簡単で、記事を見てまず目に入るのがタイトルだからだ。広告にはタイトルが掲載されるが、それを目にする人は実際の記事を読む人の数千倍にもなる。

1回目の『週刊文春』記事のタイトルは前に書いたとおりだ。

「世界的人権派ジャーナリスト広河隆一の性暴力を告発する」 セックス要求、ヌード撮影 七人の女性が#MeToo

2回目の記事(2019年2月7日号)は1月31日に、次のタイトルのもと発売された。

「広河隆一は私を二週間 毎晩レイプした」 新たな女性が涙の告発

実際にはさらに3回目の記事があり、それは被害者の家族の話なのだが、ここではまず2つの記事に焦点を合わせたい。

この先を読んでもらう前に、読者の方にお願いしたいことがある。

それは、これらのタイトルを目にしたときに、あなたは私がどのようなことをしたと想像したか、という質問だ。ほとんど人は、答えはタイトルどおりで、わざわざ言うまでもないと思っておられると思うが、あえて考えてほしい。

実はこれは最初、海外に住む友人に私が投げかけた問いである。彼は知人の日本人女性たちから、「広河がとんでもない事件を起こしたことを知っているか。あなたは友人として彼を支援してきたと思うが、どうするつもりか?」と問い詰められた。それで彼は私に、「君は一体何をしたのだ」とメールで質問してきたのだ。

それに対して私は、「あなたは私が何をしたと思っていますか」という質問を送った。「何もしてないのに」という意味ではない。私は自分が実際に何をしたかを説明する前に、人々がこの記事のタイトルと記事から何を感じたかを知りたいと思った。それで、「あなたは私が何をしたと思っていますか? そしてそう思う根拠は何ですか?」と問いかけたのだ。

残念ながら彼からの返事は「私にはわからない」だった。

その後に私は、主婦、メディア関係者など6人の人に、週刊誌のタイトルを見せて、「これを見て、私が何をしたと思いましたか?」と質問し、答えを選択してもらった。

6人中5人が、1回目の記事のタイトルを見て、「私が女性に性的な物理的・身体的な暴力をふるった」と答え、2回目の記事には「私が女性に物理的・身体的な暴力をふるってレイプをおこなった」と答えた。そして1人だけが両方の記事に、「私が精神的な意味で暴力をふるった」「私が精神的な意味でレイプをした」と答えた。この人は週刊誌発売から時間もたっていることから、記事内容について議論があることを知っており、このように答えたのだと思う。

「性暴力」という言葉

私は1回目記事のタイトルに用いられた「性暴力」という言葉が、物理的・身体的な「暴力行為」を意味すると理解していた。このブログの最初のほうに、広辞苑の第7版で何と書かれているかを示してある。この解釈も次の版では変わるかもしれないが、現在は多くの人々がどのように理解しているかを知ることができる。

しかし『サバイバーズ・ハンドブック』(「性暴力を許さない女の会」編著・新水社刊)には、「私たちは、本人が望まない、あらゆる性的体験、性的はたらきかけ、性的おびやかし、性的言動を性暴力と考えています」と書かれており、この言葉が、必ずしも物理的な「暴力」だけを表すわけではないと説明されている。

しかしその概念の普及が日本では遅れているからか、私を含め、そのように理解している人がまだ多数ではないといえる。つまりこの言葉を記事のタイトルで見た多くの人は、性暴力の暴力という文字で、殴る蹴るなど物理的・身体的暴力のことを想起したことが考えられる。そのことがアンケートの結果にあらわれていた。「暴力と書いてあるんだから、暴力をふるったんでしょ」とその人たちが考えるとき、「暴力」は多くの人に物理的・身体的暴力とみなされていた。それは今も多くの辞書に書かれているとおりだ。

だから週刊誌報道を見て、私に対して「被害者に謝罪しろ」と言う人は、その人が信じ込んだ「私が犯した犯罪」つまり「物理的・身体的暴力」について、私に「謝罪しろ」と言っていたことが多い。私はある女性弁護士にタイトルを見せたことがあるが、その人もタイトルから私が物理的・身体的な暴力をふるって、初回記事の登場者7人全員に性交をおこなったと考えていた。タイトルを見た人が抱いたのは、このような印象だった。

しかし2回にわたる記事を注意深く読むと、暴力的か否かを別にして、そもそも性交や性的接触を伴う関係にあったのは8人中3人だと書かれていることが分かる。他の人々は、言葉のセクハラ、食事の誘い、付き合いの誘い、身体的・物理的暴力を伴わない人権侵害だったりした。決してそれが問題ではないというのではない。人々のタイトルからの印象を述べているのだ。

では具体的に、何が一人歩きしていったのだろうか。


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