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10.公募によらない大学教員の採用

私はなぜよばれたのだろうか?

大学教授になる道は公募だけではない。むしろ個別に声をかけられて、という方が多いかもしれない。例えば金沢工業大学では教員採用に当たって公募はしていない。私の2度目の就職(北陸大学教授・副学長)も公募ではなくお誘いをいただいたものだ。
公募ではない採用の場合、採用する側に様々な事情があり、その事情にマッチした人を探す。例えば新しい学部を立ち上げたり、新しい組織(企業との連携や知財活用など)を作る時、立ち上げに必要な人材が学内にいないことが多い。その時には外部からスカウトしてこなければならない。
私が採用された嘉悦大学は東京都小平市にある、学生数1300人ほどの小規模大学だ。私が呼ばれたのは加藤寛先生を新学長に迎え、抜本的な改革をしようというタイミングだった。加藤先生は就任に当たり、10人ほどの慶応関係の若い先生を改革の中核メンバーとして連れて行こうとしていた。その人選は玉村さんと既に嘉悦大学の専任講師として赴任していた田尻さん(現北陸大学教授・学長補佐、その後長い付き合いになる)に任されていたらしい。その時、若い人ばかりでは心もとないので年配の人も加えよう、ということで白羽の矢が立ったのが私だった。他に加藤先生のゼミOB の元銀行員で千葉商科大学の非常勤講師をされていた方と元中央官庁のキャリア官僚の方がいた。この3人が若手の抑え役として加わったのだが、3人とも大学教授は未経験だった。恐らく加藤先生の人脈でいろいろな人に声をかけたと思うが、なかなかそろわなかったのだろう。田尻さんも行政経営フォーラムのメンバーで面識があったので、もしかしたら私のことを思い出したのかもしれない。

極めて運が良かった私の大学教授就任のタイミング

赴任前に加藤先生と赴任予定の若手教員による合宿が行われ、私も仕事の合間を縫って参加した。そこでは大学をどのように改革するか喧々諤々の熱い議論が行われていた。その議論によって私は今の大学の何が問題か、それをどのように解決しようとしているのかを知ることができた。それをこれから実行しようとするタイミングで私も参加することができたのは幸運だった。つまり私は既存の大学世界にたった一人で加わったわけではない。わたしは既存のアカデミアの世界(の常識)をほとんど知らなかったが、それはハンディにはならなかったのだ。なにしろそれをいかに変えていくかがテーマの世界に飛び込んだのだから。スタートは皆一緒だったので未経験の私も様々な意見やアイディアを言うことができた。
もう一つの幸運は、晩年の加藤寛先生の謦咳に接することができたことだ。加藤先生は政府税調の会長や歴代首相のブレーンを務め、三公社五現業の民営化に辣腕を振るったが、教育者として卓越していて慶応SFCの設立で象牙の塔に凝り固まった日本の大学に風穴を空けた方だった。その理想を嘉悦大学でも実現しようとしていたタイミングで私も参加することができ、自分の大学教員としての軸が形成された。加藤先生は「楽しくなければ大学ではない、楽しいだけでも大学ではない」とおっしゃっていて、どうすれば学生のためになるかを常に考えていた。
赴任したばかりの時加藤先生に「大学の授業ってどうやればいいんでしょうか?」と聞いたら「面白いことを言って笑わせていればいいんですよ。難しいことを言うのは自己満足です」とおっしゃった。なるほどそれなら自分でもできるかもしれない、と勇気づけられた(現代の学生を笑わせるのは至難の業だが)。
赴任した翌年、私は副学長を仰せつかった。高齢の加藤先生の代わりに地域社会に出て代理を務めるのが役割だった。これをきっかけに私は「学生を地域社会で育ててもらう」というアイディアを思いついた。小さな大学では学内で接する人も限られる。学生が学外に出て地域の人々と接する機会を作り、大人に叱られたりしながら鍛えられる機会を作ろうと思った。ロータリークラブの会員になったりしながら人脈を広げ学生が参加できる機会を作っていった(なにしろ元営業マンなので)。これには若い先生方が続いてくれて、地域に貢献し大学の存在感を高めることができた。

ぶれないわらしべ長者

大学教授になりたいと思っている人にとって私の経験は役に立たないかもしれない。しかし公募によらない採用の場合(あるいは公募であっても)、その情報を知った時になぜ教員を必要としているのかについての様々な背景・事情を理解し、自分が適格かどうかを考えることは重要である。
ここまで私の事例を紹介してきた。特殊な事例と思われるかもしれないが、あえて大学教員になりたいと思っている人に対する教訓が二つある。
一つは、「軸がぶれないわらしべ長者」ということ。大学教員は教育の前に研究がある。研究とは自分が何に興味を持ち、何を探求したいのか、ということである。それを根底に持ってテーマを発展させる、あるいはそれを追求する最適な環境を求めていく、という姿勢が大切である。そっちの方がうけるから変えようということではない。
二つ目は、情報発信である。私が査読論文や共著を書き、学会やシンポジウムやで発表したり講演で話したりしたのはすべて自分の考えを知ってもらいたい、と思うからである。もちろんそれは独りよがりではなく、学問の方法によって裏打ちされていることと、新しい考えで世のため人の為になると思う信念に基づいている。情報発信を続ければ、何かの時にそういえばあの人がいたな、と思い出してくれる人がいるかもしれない。

(写真は加藤寛先生と一緒に小平市長(当時)を表敬訪問した私。加藤先生にお仕えしたのは4年間だったが、大学教員として教えられたことははかりしれない)


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