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解説本の効用

本を読んでいるとたまに解説本を読む必要がある本が出てきます。
たとえば古典です。
古典は難解そうに見えるため、読むことを敬遠されがちです。

書店に行っても古典が置いてません。
たぶん置いても売れないからでしょう。
だれも手に取らないのかもしれません。
それはやはり難しいというイメージが先行するからなのでしょう。

たしかに古典は難解です。
たとえば私は以前にアリストテレスが書いた『形而上学』を読もうと思いました。
そのときは古典というもののイメージがつかなかったため、とりあえず読んでみようと思って軽い気持で手にとってみたのです。
そしていざ『形而上学』を読んでみるとあまりの難解さにすぐに挫折。
2時間ほどアリストテレスの『形而上学』とにらめっこしました。
しかし読み進められたのはたった2ページだけでした。

その後も何度か挑戦してみたのですが、理解することはできませんでした。
あまりに抽象的な本で、書いてあることのイメージがわかなかったのです。
こうして私は古典を読むことに挫折しました。

そこで私は本物を読むことを諦めて、解説本からを読んでみようと思いたったのです。
解説本ならば現代的な視点で書かれているため、本物を理解するのに役立つだろうと考えたのです。
ちなみにそのときは『形而上学』を諦めて、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の解説本を買いました。

解説本にはわかりやすく古典の内容が説明してありました。
著者の考え方から古典を書くに至った背景など。
本物を理解するための説明が細くしており、大変役に立つと思いました。

そして解説本を読んでから本物を読み始めるとすぐに効果を発揮しました。
難解で理解できなかった部分が理解できるようになったのです。
解説本の助けを借りることによって、自分にとって難解な部分を理解できたのです。
これは本当に嬉しいことでした。
古典という知恵を手軽に理解できるようになったのですから。

解説本はこのように難解な本を理解しやすくしてくれます。
まるで深い森の中を歩くときに地図のような役割を担ってくれます。
現代では多くの解説本がありますし、ほかにも解説してくれる動画やサイトなどがあって便利です。

しかし、私は解説本から本物を読むことはおすすめしません。
ここまで解説本を推しておいて一体何事かと思われますが、私は解説本から読むことはおすすめしません。
なぜならば解説本は解説本を書いた人の見解であり、その見解をもとに本物を読んでしまう可能性があるからです。

たとえばラーメン店で食事をしようとします。
初めて行く店なのであらかじめレビューを参照して行きます。
レビューにはおすすめは担々麺と書かれていたとします。
そしていざラーメン店へ来て、担々麺を食べてみると美味しいけどなんだかいまいちな感じ。そもそも自分は担々麺など食べたかったのか?
じつはこのラーメン店で最も美味しいメニューは塩ラーメンでした。

このように最初に解説本に手をだしてしまうと、あらぬ間違いを犯してしまう可能性があります。
レビューはあくまでレビューであり、本物ではないということです。
臆病になって解説本から読もうとする人は、まるで食事をする前にお店を勝手に判断しているような感じです。
この店は不味いだの接客がなっていないなど、こんなことがレビューで書かれているとその点が気になってしまい、なかなか本物を味わうことができなくなります。

ですから解説本を読むときは注意したほうがいいです。
あくまで解説本はある一人の見解にすぎないということに。
その見解は必ず一方向性であり、本物の古典を正しく説明しているなんてわかりっこないのです。
したがって難解であろうとも最初に本物の古典を手にすべきです。

ある程度、本物の古典を読んでも理解できないならば解説本を開いてみるべきでしょう。
解説本から本物を紐解くヒントが得られるかもしれませんから。
たとえば自然科学の本などはかなり抽象的な概念を説明しているので、ある程度読んで理解できない箇所があれば解説本を読んでもいいでしょう。

現代ではなんでも先に簡単なものからという風潮があります。
先に簡単なものからはじめて、慣れてきたころに難しくしていくという感じです。
たしかにこの方法は合理的に見えるかもしれません。
現代の学校教育もこのような方法をとっていますし。

しかし最初から本物に手を出さないことは、誤解を生む原因になります。
最初からやさしい内容を始めていては、自分の本当に知りたいことを知ることはできないと思います。
やさしい内容から始めたところで、結局は突き詰めていかないと真の理解には至らないでしょう。
そういった意味でも、最初から本物の古典を読み始めることは最短ルートなのかもしれません。





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