大人という逃げ道

 教員という職について、早いことであと少しで3ヶ月が経つ。時間というものは無常である。私を置いてあっという間に進んでいく。今まで肩を組んで二人三脚でゆっくり歩いていたのに、今や私の肩を振り解き、前へ前へと私を引きずっている。このまま引き摺られ、傷だらけのボロボロのまま、死というゴールに辿り着くのだろうか。

 まぁそんなことはどうでもいい。問題なのは進むスピードが速くなったことでも傷だらけになることでもなくて、どういう風に傷つくかということなのだ。


 朝職員室に入って、帰りの退勤ボタンを押すまでに何度子どもの悪口を聞いただろうか。子どものことを馬鹿にした笑い声を何度聞いただろうか。

 「あいつにあの大学は無理。」

 そう言って大口を開けて笑う教師が通っていた大学は、偏差値だけで言えばその子が目指す大学の何十個も下。

 「なんでこんなこともできないの?」

 そう言うあの教師はいつも言ってることが違くて、私も子どもたちもいつも困ってる。

 「あいつなんてなんもできない。」

 頭も性格も悪い、まして大学も落ちて夢も叶えられなくて諦めて、仕事もできない、おまけに顔もブサイクのお前には何ができんの?


 毎度毎度、子どもたちの悪口を聞く度にそんなことを思ってしまう。今現在、大きな錘を持ちながら階段を一段一段登っている子どもたちに、下から罵声を浴びせることしかできない大人たちは、何を思っているのだろう。厳しさとは似て非なる悪意を持って子どもたちに接する彼らは、何を思うのだろう。

 教員として、それ以前の大人として、子どもの背中を押してあげるものではないのだろうか。 

 もしかしたら、彼らも子どもたちへの思いを持って教員を志したのかもしれない。

 だとして、そんな人たちに私の思うことを言ったら、「若いね。」とか「まだ子どもだね。」とか言われるのだろうか。そんなことを言われたとて、それは違うと言える材料なんて子どもの私には持ち合わせてやいない。
 確かに彼らはこのしんどい人生を私よりも長く歩んでいる。でも、もし私に対して言い返す言葉として、若いね、なんて言葉で揶揄するのであれば、それはずるいと思う。歳はただの数字でしかないのだ。
 その人が言う若いね、と言う言葉は、時計が刻む時間のことしか言ってないのだ。自分が生きてきた人生の密度のことを言ってるのではなく、ただなんとなく過ごした時間の長さのみを担保に述べているだけなのだ。 人としてちゃんと考えて生きてこなかった、子どもたちを納得させられるような信用を得る努力をしてこなかった、見るだけで人を納得させられるような資格なんなりをとってこなかった、そんな人生の密度を濃くすることをサボった人間の言う戯言にしか私は聞こえないのだ。
 ただ、人として生きることをサボった、ちゃんと生きることをサボった、だからこんなしょうもない有り様の自分を写し鏡に、食いかかる私を子どもとして投射しているだろうか。

 彼らが何を思って子どもたちにそのように接しているのか私にはわからない。もしかしたら、言葉や態度とは裏腹に子どもたちのことを思っているのかもしれない。私にはとてもそうは思えないが。

 教師たちが自分を指して言う「大人」は、心身ともに成熟した者を指しているのではなく、ただ時間を多く使った者を指していると思うのだ。もしそれが真実だったとき、子どもたちは学校という場で何を見せられているのだろう?


 なんてここまで散々偉そうなことを言ったが結局まだ私も子どもなのだ。どっちの意味の大人でも、私がまだ理解できないようなことを経験していることには間違いない。彼らと同じ”歳”になったとき、彼らと同じことをしているのかもしれない。
 でも、まだ私は子どもだから許せないものは許せない。それはそういうものだから、と片付けてしまったら大人とか子どもとか以前に私が私でなくなってしまう気がするのだ。


 早くこの仕事を辞めたいと思う。


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