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最後に気づくもの

 大学を卒業した。いつか終わると分かっていたのに、頭のどこかでは終わるわけがないと思っていた学生がついに終わりを告げた。


 卒業式やその後の懇親会、またまたその後の飲み会でたくさんの人と写真を撮った。撮りながら、その瞬間その瞬間が思い出となっていった。

 午後の6時ぐらいに集まって、みんなで一杯50円ぐらいの安い酒を飲んで、馬鹿でかい唐揚げとかのご飯を食べて、色々なことをお喋りしていた居酒屋。いつも当たり前に店に入って当たり前に出て、そしてまた数日も数週間しないで当たり前に入っていた居酒屋。ここの敷居をまたぐことももうないかもしれない。もう目に映ることもなく、記憶の中だけで存在するものになるのかもしれない。


 色んな人と揉めて喧嘩をした大学生活だった。でも結局最後には仲直りして、なんのわだかまりもなく終わることができた。
 簡単なことだったのだ、ただ、あの時はごめんと言えればそれで全部済んだ話だった。こんな簡単で大事なことなのに、最後になるまでそれを忘れてしまう。いや、最後になって思い出せただけいいのかもしれない。


 ほぼ毎日行っていた学習塾のアルバイトも終わった。受験勉強を頑張っていた高三生とも、勉強も部活も恋愛も人間関係にもひたむきに向き合っていた他の子どもたちとももう会うことももうないのかと思うとどうにも悲しいのだ。仲良くしていた同僚とバイト終わりに安くて美味しい物を食べて、その後向かったスーパーで、酒を買え買えと言い合って、その後何時間も路上でお喋りしてまた明日と言う日ももうこない。当たり前が、手を振っていた。


 本当に悲しいものというのは、暴力やお金を失うことではなく、当たり前にあったはずのものがなくなることだ。ジュエリーやブランド品、お金なんかよりも、目に見えない当たり前に本当の価値があるのだろうとつくづく思う。星の王子さまの小麦色が好きな狐が言っていたことはやはり真理であったのだ。

 でも目に見えない当たり前の価値に気づくのはいつだって最後だ。いつもそうだ。頭では分かってるはずなのに、いつも忘れてしまう。それで最後になって、また思い出す。また思い出して、大事なものが増える。失う前で良かったとも思う。

 だから、また忘れてしまうのかもしれないけど、忘れないようにしたい。今あるものも、突然なくなってしまうかもしれない。なくなってしまうこと自体はもうどうしようもないかもしれないから、どうせなくなってしまうのなら、なくなるまで大事にしたいと思う。そうすることでなくなったときの悲しみが増えたとしても、私はどうしてもそうしたいのだ。

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