僕が苦しんでいることは何なのか -映画「怪物」を見て

昨日、ずっと気になっていたが怖くて見れなかった映画「怪物」を見た。

ここからは、ネタバレを含むのでまだ見ていないという方はこのページを閉じてほしい。

怪物は、人の心に芽生える「怪物」をテーマにしている(と思われる)映画である。それを描き出すために様々な背景を持った人物たちが登場するのだが、主人公の小学生「麦野湊」は、同性である「星川依里」を好きになり、自らのセクシャリティに悩む。同性愛に悩む主人公の映画ということで関心はあったものの、見てもつらい感情にさいなまれるのではないかと思いずっと見るのを躊躇していた。

案の定、僕は見ていてつらいものがあった。ただ、僕は予想とは違う涙を流した。また、映画で描かれる「湊」と「依里」の恋愛模様はとても美しく、日本的で、かつ二人が直面する、日本という国で幼い同性同士がひかれあった時に強いられる苦悩はとてもリアルで驚いた。そして、これまで日本でこのように小学生の男性同士の恋愛模様と繊細な感情をリアルに描いたものを見たことはなかった。おそらく国内で初めてなのではないだろうか。主演の二人の演技力の高さにも非常に驚いた。

僕が冒頭に述べた映画を見る前に「辛く感じるだろう」と思っていたのは、同性愛者が暴言を吐かれたり差別にあったりしている様子を第三者として見たときにつらくなるのではないか、という予感であった。それは、あまり描写がリアルでない物語を見たときに感じる感情だ。それは、同性愛者が実際の生活でそのような暴言を吐かれるわけではない、ということではなく、登場人物の同性愛者自体がリアルでなれけばその人物に感情移入して見ることができず、ただ「性的マイノリティの人物が暴言を吐かれている」ということにだけショックを受ける、という状態になるのである。

しかし、僕がこの映画を見たとき、僕は「麦野湊」にも「星川依里」にも感情移入して見ることができ、実際自分が幼い頃に感じていた苦しさを思い出して泣いていたのである。

僕は、トランスジェンダーのゲイ寄りのバイ男性であるが、20代半ばに差し掛かるまで、性別違和を抱えていることも、同性として男性が好きであることも、女性を好きになることも一切誰にも(ネットの世界でさえも)相談することがなかった。ただただ一人で抱えて苦しんでいた。そして、一粒の涙すら流したことがなかった。それは辛くなかったわけではなく、泣いても叫んでも誰も助けてくれない、どうすることもできない、社会は変わらない、と思っていたためである。現実でできる解決策が一切見当たらなかったため、問題に目を向けることが苦しくただただ感情を殺して耐えるしかなかった。だから、僕はセクシャリティーや性別のことで泣くことができなかった。

これはカミングアウトしてからも続いた。もちろん以前より状況は改善したので何度か泣くことはあったが、過去のつらかったことは封印していることがほとんどだった。唯一過去を思い出して泣けるのはLGBT関連の映画をみて登場人物に過去の自分を投影した時だけだった。しかし、日本のドラマや映画には最近こそLGBTをテーマとしたものが作られ始めてきているが、僕が心から共感できるようなものはほとんどなかった。日本のドラマや映画に出てくる主人公たちは、ほとんど内面を語ることが少ない。語ったとしても、ストレートの人々が想像しうる域あるいはストレートの人々の視点の苦悩であり、僕たち当事者が本当に心の奥底に抱えている苦しみまで描いているものは見たことがなかった。そうした背景から、僕は仕方なく海外のLGBT関連のドラマを見ていた。海外のものの方が、もう少しリアルな作品が多いからだ。しかし、やはり僕は日本で生きてきた人間として心から共感できる作品を求めていた。

だから、この映画「怪物」で描かれる二人の少年の感情のリアルさには驚かされた。映画の宣伝で、LGBTについて監修が入っているかどうかは言及されていなかったが、もし脚本にストレートの方しか関わっていないとしたらあっぱれである。

話を元に戻そう。僕は、日本の作品で共感できるようなものがなく、これまで過去のつらかった感情を吐き出すことができずずっと傷ついた心を癒せずにいた。それが、今回の映画を見て、共感の涙を流すことができて悲しくつらかったがとても救われた気持ちになった。これからもこんな作品が増えていけばいいなと思った。

ここまで、僕は映画を見て泣いた理由をつらつらと書いてきたが、実は自分が想像していたよりも大量の涙を流した。正直、その理由は自分でもはっきりと分からない。わかるのは、それがただ過去のことを思い出して泣いていたのではなく、今も苦しんでいて泣いているのだということだった。だからこうして記事を書きながら考えてみることにした。

僕は、カミングアウトして社会的にも男性として生きられるようになった。過去と状況は変わっている。そして、周囲にははっきりと差別するような人はおらず、ありのままの僕を受け入れてくれている人もいる。ずっとほしかったゲイの友達もできた。しかし、それでもなお苦しい。

昔感じていた、いつどこで誰といても、世界から切り離されて独りぼっちのような感覚がまだ残っている。そして、この2024年、僕が幼少期思い描いていた未来の日本よりも、社会はLGBTに対してメディアは進歩してきたものの、日常レベルではまだまだ僕らの存在は透明にされたままのような気がしている。これは僕の被害妄想なのだろうか。でも、日本ではカミングアウトしている人があまりに少ないため、カミングアウトしても僕はいつも日常生活で独りぼっちのような感覚に陥る(もちろん、カミングアウトするか否かは個々人の自由であり、カミングアウトすることが良い、というわけではない)。少なくとも3%以上の国民はLGBTであるはずなのに、この30年間生きていてほとんど同性カップルが手をつないでいる場面に遭遇したことはない。30年もだ。これは異常だと僕は思う。そしてもちろん、会社でカミングアウトしている人もいないので、同性愛者の人が自分の恋人の話をすることも一切ない。それに対してストレートの既婚者やお子さんがいる人が何の気兼ねもなく家族の話をしている様子を見て、やはり会社(というよりこの日本社会)はストレートの人のためだけのもののように感じてしまう自分がいる。これは、日本全体がそうであるというだけで、もちろん僕の勤めている会社が悪いとかそういったことではない。ストレートの人々が悪いわけでもない。僕の気にしすぎだと思う人もいるかもしれない。

だけど、必ず自分と同じ人がいるはずなのに一切姿が見えないという異様な環境で何十年も生きていたら、孤独を感じずにはいられないと僕は思う。でも、これも幼い頃に「この日本はストレートの人だけのための世界で、僕らは見えない存在として生きていくしかないんだ」と感じていたあの頃の感覚を引きずりすぎているのかもしれない。

さらに、僕は会社では男性の同僚になじめていないと感じる。誰かが僕を邪険に扱っているわけではない。しかし、異性愛者のシス男性たちにどうしてもうまく混ざることができず、でもずっと焦がれてきた同性同士の友情に途方もなく嫉妬してしまう。一体この状況をどうしたらよいのかも分からない。嫉妬で苦しんでいるなんて恥ずかしくて誰にも相談することができない。相談しても、誰も僕の苦しみを理解してはくれないだろう。

そのような2024年の実情と、過去の自分の感覚とが入まじって日々を過ごしている。そして、何よりつらいのは、この現状をどうすれば打破できるのか全く分からないことだ。幼い頃からそうだった。このセクシャリティーの問題は、誰に相談しても誰も解決策を知らない。提示できない。周囲のストレートの大人たち(僕ももう「大人」という年齢かもしれないが)はこの問題に対処する術を持っていない。だから、何か解決しようとすれば自分でやるしかない。ヒントももらえない。それがつらいところだ。

とりとめのない考察となったが、今のところ自分が苦しんでいる理由を分析してみるとこんな感じだ。

またもう少し内省をしてみて、分かったことがあれば続きの記事を書きたいと思う。