大学を辞めるという選択肢


こんにちは。今日うちの人事統括(ただの近藤)と松屋で飯くって帰ったんですけど、その時の僕の学びが非常に面白かったので忘れないうちに言語化しておこうと思います。というわけでジョナサンにきました。コーヒーソフト、おいしいです。

ちなんでいうと、この記事Facebookに共有する前提で記載していまして(仰々しいタイトルがついていますが笑)、ちょっとその辺を意識してちゃんと書こうと思ってます。今までの振り返りも兼ねて、また備忘録として。僕が大学受験を決心して、そのまま今の野望につながっているのと同じように、あの時の僕は今日の事は一生忘れないだろうと心に焼き付けたある種傷跡のような熱量を煮えたぎらせて、その熱は今も鮮明に、昨日見た夢のように思い出しますから、体裁だけはちょっと意識して、賞味期限(僕が神記事と崇めているやつ)を超えるつもりで。先生が私に遺書を遺すように。芥川賞の又吉のように。イケダハヤトもとい、アイダリュイチ。けんすうもとい、りゅうすうみたいな感じで頑張ります。


<最近のていたらくについて>

最近の僕はというと、もっぱら睡眠時間が長いように思います。授業はちゃんと出ているのか怪しいし、出たら出たらでパソコンを開きながら寝るような生活を送っています。そんな大学生活も残り1年半となってきました。振り返ってみると短いようですが、その密度は僕の生きてきた中でも最も濃い、充実した時間のようでした。その時間は僕が地獄のように感じていた2年間よりはだいぶ精神的に安定していました。確かに、僕のその2年間は遠回りだったのかもしれませんが、そのたびに見えてきたものが沢山あったので、一概に今までの人生を否定するようなことは出来ません。ただ、少し焦燥感に駆られているというのは確かにあります。周りに優秀と呼ばれる学生が沢山いますが、そんな彼らを見ていると幼少期からの経験量が凄まじいことがわかったんです。そんな彼らと自分を無意識のうちに比較して虚しい気分になってしまっています。しかし、これは教育格差が問題だとか、経済格差が問題だとかを言い訳にできないことは僕だからこそ重々承知しているつもりです。社会で今活躍なさっている方々の中でも、逆境を乗り越える不死鳥のように活動されている人たちが沢山いますので、僕はそれをひとえに言い訳にできないし、その言い訳を根絶させる為に生きているといっても過言ではないはずなので。ただ、今の僕は思いの外、安定していないみたいです。

<比較社会のジレンマ>

悩む時間があったら行動にうつせ。とホリエモンがいっていたり、茂木さんがすぐやる脳の作り方という本を出版なさったり、最近の起業家の皆さんがとてつもない実行力で名を上げているのを見ていると、自分が行動に起こしていないことの情けなさに直面することが多々あります。資本主義の競争の中でも、ビジネスはとてもシビアで、かつライバルのレベルがとても高いのです。全国大会までならまだしも、よもや勝手に世界大会が開催される世の中になっていますし、ユーザーがいいと思ってもらえないと淘汰されますし、U-22もなく、その辺のクソ優秀なおっさんたちと戦っていかなければならないので(スポーツでいうと165cmの中学生が2mのNBA選手とバスケしてる感覚)幼少期からスポーツで競い合っていた社会がそのままビジネスになっても続いていく様子が見て取れるようでした。僕はその比較社会に生きることがなんとなく嫌だなぁと思いながらも、どこか市場の穴をぬっていかなければならない感覚はしていたので、向き合おうと必死に、この3ヶ月はただひたすらいろんな情報に触れてきました。

近藤(人事統括)との話の中で、自分の今の状態を打ち明ける機会がありました。今の自分はどこか、ふわふわと手に力が入らないような感じがしていました。 会話の中で「龍一って競争性ある?」という問いを投げられたので、先ほどと同じように、「比較社会から逃れようとしているのは、比較社会で戦っていけないことの正当化のように感じている」と伝えました。また、「競争性はないわけではないが、自分の競争相手は常に2歩先を進んでいる理想の自分であることが多かった」とそう伝えました。これは僕が去年サマーインターンで掲げていた目標がその意味をよく表していました。僕は1番になるのは前提として、突き抜けた先にある理想の自分と競争をしていました。そうでなければ、限られた時間の中で自分のパフォーマンスを最大化させられないだろうということも承知していました。

僕は設定した目標に一歩ずつ近づいていることに充実感を抱く人間のようでした。そのため、より高い目標を設定すればするほど、そこに到達していく過程の中でどれほどレバレッジを効かせて成長実感できるかどうかが僕のモチベーションになっていました。 つまり、今の精神不安定な状態は今設定されている目標がないことを意味していたのです。かりそめの目標は確かに目の前の選択肢からありありと見えてはいるものの、それぞれの目標達成に熱が入らないのは、その目標が達成された先を描けていないことが問題のようでした。

<リスクの上限値>

つい先日、とある面談でリスクの上限値についてお話に触れる機会がありました。リスクというのはなにかをやりたいと考えた時に、やらない方がいいと意思決定してしまう理由、みたいなところがありますが、僕の場合はそのリスクは取らないことで発生するリスクというのが妙にしっくりときました。ザッカーバーグが "Done is better than perfect"とか言っていますが、僕はその中でも"The riskiest thing is to take no risks"と言っていたことの方がガツンときていました。更に胸に釘を刺された思いがしました。これについては1年生の時からだいぶ考えてきたつもりで、ザッカーバーグに言われたこともあったので、リスクをとらないことのリスクを説明しようとしていました。でも、いまだにできていないことを雄弁としゃべろうとしている自分がやたら滑稽に映りました。その結果として自分でも何をいってんだかよくわからなくなってしまいました。僕はリスクの上限値という問いに対して、"リスクを取らないことがリスクなのであれば、何故今自分は行動に起こしていないのか"という問いを投げかけられているような気がしてならなかったのです。僕は気丈に振舞っている言動が全て言い訳になっていることをはっきりと認識していました。

振り返って考えてみると、その魔術のような問いは、僕のリスクの上限値がそこにあることを確かに教えてくれました。

<今を必死で生きることと未来を見据えて生きること>

僕は起業家には向いていないということは、カウモの和光さんや、土雅くんや、近藤を見て痛感していました。今の時代に求められているものはコミット力、言い換えると実行力のそれだと思っている部分があるので(もはや思考力ではあまり差がつかないほど、情報がありすぎているので)自分の慎重さや、不確実性の掌握ができない限り行動に移せない自分は弱いものだと認識をしていました。つまり僕は自分が絶対に達成できると確信した時にしか行動に移すことのできない人間だったのでした。これに気づいてしまうのは僕にとってかなりショッキングなことでした。「できなそうな事」と「本当にできない事」の違いについて、自分自身も強く理解していたからです。

現在の自分ができるかできないかを想像すらしない事が、現在の自分の「本当にできない事」だと思います。同様に、将来の自分が本当にできない事というのは将来の自分ができるかできないかも検討すらしない事ということになります。

慎重さや戦略性、未来志向が強く出ている分、自分は投資家の方が向いているだろうと直感的に考えていました。ただ、僕は投資家にも向いていないことがわかっていました。正確にいうと、これらのことは全てできなくはないんです。ただ、その土俵で戦ったところで、上には上がいることを十二分に理解してしまっていたのです。少なくとも、そのような気がしているということだけは正しそうでした。僕は自分の取る選択肢は起業家か経営者か投資家かという三択で考えてしまっている部分があり、(もちろん10年後また違う役割の人がでてきているだろうことは前提として) この中で僕が最も戦うべきところで、かつ勝たなくてはならないと思っているのが経営者なので、僕は目標に経営者になることを掲げました。その役割が現在もっとも高確率で社会に起こすポジティブなインパクトが大きいと判断したからです。また、僕にとって事業を創るということよりも、会社を創るということに猛烈なこだわりがあるので、僕は事業家でもなければ、起業家でもないのだとはっきりと認識していました。だからこそ最短距離で経営者になることが僕にとって最も都合が良いということになりました。また、自分の会社を創るということにこだわりがある以上、雇われのCEOを経験しても、いつかは自分の会社を自分で立ち上げなければならないことも理解していました。ゆえに、いつかは自分で起業しなくてはならないことを同様に理解していました。


<無意識的行動の顕在化>

最近の僕はというと、もっぱら睡眠時間が長いようですが、覚醒している時にしていることはほぼ全ての活動を代表としての活動と情報収集の時間に充てていました。その比率は時が経つにつれて逆転していきました。いまでは覚醒しているほとんどの時間を情報収集と思考の時間に充てるようになってしまっているかもしれないと感じるほどです。僕はその不自然さを認識することができていませんでした。
また、だらしなくどこか気の抜けた炭酸のようにサマーインターンの面接をこなす日々が続いていました。これはもちろん様々な因果があって選択をしているはずなのですが、それも明確な目的に沿って行われていることに、つい昨日まで気づくことが出来ていませんでした。僕はついに僕の思考の癖、パターンを認識することができていませんでした。それを象徴するかのように、僕は後輩へのフィードバックの際に、自分ができていないことをそのまま伝えているのです。"自分がまだまだと思っているせいで強みと認識できないことがあるのであれば、まだまだだと思っている問題を克服することさえできれば、強みも磨かれれば弱みも解消されて一石二鳥ではないか?"
すなわち、自分が起業すると意思決定ができていないのであれば、意思決定できる状態にまで自分を持っていけばよいではないか?
言い換えると、リスクの上限値が潜在的に存在しているのであれば、そのリスクを一つ一つヘッジしていけばよいのではないか?
ということに自分の意識は理解することができていなかったのです。
でも僕の無意識は意識とは相反して、実に合理的に機能していました。つまり、僕は今までの自分のとってきた行動がすべて、起業する理由を明確にしていく作業だったことについ昨日まで認識することができていなかったのです。

そう考えてみると僕の行動は実に合理的に選択されていたようでした。
今回のサマーインターンに参加する企業は自分に2つの選択肢を用意するために、また、自分がビジネスで戦っていけるかどうかを測る踏み絵として機能していることを認識しました。
僕はかねてから(代表になってからも)就職するならこの会社がいいなぁと思っている企業がありました。今年の夏、僕がその会社でインターンをすることになったのは、ひとつには僕の今の実力を測るものとして機能しているものと共に、自分がやりたい行動をとったときにリスクヘッジができるセーフティネットを作るという目的も同時に存在していました。そして更に自分がその会社に入社してから最短距離で自分の会社を持つことの可能性を測ろうとしているらしいこともわかりました。極めつけは、その企業の学生やその次の機会まで、根こそぎ吸収してみせる気でいました。
つまり、就職してから起業する安全な選択肢と、学生のうちに起業する過酷な選択肢を用意し、その2つをインターンを通して見極めていくつもりでいたことを自覚しました。
以上のことを踏まえると、自分が今起業しない理由の最たるものは、
今の自分が起業してどこまで通用するかがわからないことが不確実性が生じさせており、ゆえに自分がリスクを取っていない。ということがわかりました。
それを言い換えると、自分ができると思った状態を作り出すことができれば、自分は起業をする。ということを如実に表しているようでした。
もっと簡単にいえば、僕は失敗することを恐れているだけだったのでした。

今僕が無意識のうちに情報収集している理由も、絶対に勝てる領域の選択、テクノロジーの次の波を正確に予測し、適切なタイミングを踏むことに超慎重になっているが故だったのでした。全ての行動になんの脈絡も関連性もないように見えましたが、ついに昨日、全ての点と点が常に線になって、形になっていく感覚を覚えてしまいました。

そう考えてみると、僕の特徴は別にそこまで悪くないことだろうなということを、僕が2年浪人するというリスクを負ってまで大学に入学した理由と、僕が1000万円のリスクを背負ってまで大学生活を送っている理由が証明しているようでした。自分に自信があるんだか、目標が極めて明確だからかわからないですが、確信した瞬間に平気でリスクを取る人間であることを証明してくれていることがわかるからです。今回意思決定に多大な時間がかかっているのは、意思決定の難度が外的要因の複雑性が異次元な程高くなっているからだと思うようになりました。

<できないことに根拠のない確信をつけていくやり方もある>

そうなった時に僕のやらなくてはならないことは単純明快になりました。
今までは感性的な考え方しかしていませんでしたが、今は無意識化の行動を意識化に落とすことによって、より明確によりスピーディに事を進めることができるようになると思いました。だからリスクだと思っているものの言語化と、リスクヘッジを全てにおいて行うことが急務になりました。
多分今リスクだと思っているのは1000万円の借金と生活の安定だと思います。これも明確に、エンジェルを入れて黒字化するまで休学し、中退して金銭的に余裕を持ってから返済をしていくことができれば問題ないのではないかと考えるようになりました。
また、今の自分の就職先は、今僕がインターンをさせていただく企業の他にも、去年お世話になった企業が2020年まで僕の入社を許してくれていますので、もし黒字化に失敗しても露頭に迷うことはないし、死なない程度に生きていくことは可能なんだろうなということだけは実はわかっていました。更に、だめだったら就職するというセーフティネットがあることではなく、起業し事を成そうとした時に得られた経験値がまた次の仕事にも活きるはずだという仮説に確信を持つことができれば、迷う必要がないことがわかります。

つまり僕は大学を辞めるという選択肢を持つことによって、究極的に自由であり、何でもできる状態になれると確信するようになりました。
そのカードを切るかどうかは今後の僕がどれだけ不確実性を掌握することができたかによりますが、少なくとも前向きに、意識的に行動を進めることはできそうです。
残りのスキルセットに関しても同様に、デッドを設けて、そのデッドにコミットすることを常に意識していくことが今の自分に最も必要なこともなんとなくわかることができました。


<生き方を貫く>

確かに僕は今に全力になることはできないかもしれないし、先の見えていることが自分にとって行動を促進させる気もしています。しかし、そのやり方だとこれからの市場で勝ち抜いていくことが難しいこともわかっている気がします。
そういえばこの前コーチングをなさっている方にいわれたことがありました。
"慎重さが出ているのであれば、その慎重になっている理由の解消速度をあげることによって実行スピードをあげることができるのではないでしょうか"
これが今僕の中でもっともしっくりきているやり方かも知れません。

いろんな人に支えてもらって大学生活を送れていること。その恩を返して生きていくことの大切さ。大学に入れたこと自体に不満はそこまでありませんし、進んだ選択肢を正解にすることはできたなって純粋に思います。高校生の僕の状態を考えると、某企業でインターンができるようになるなんて想像もつかない未来だったからです。ただ、その程度で喜んでいられる余裕がほとんどないのも事実ですが。
近藤には「龍一が選考に通過するのはもはや当たり前だと思ってるよ。でも自分で考えて行動できるのにFB環境を求めている状態になっているのが、らしくないんじゃないの?って思うよ」 って言われてしまって、それは反省しなくてはならないなって思いました。
究極的に僕はサマーインターンに参加することはセーフティネットを作ることが目的なのでしょうか、力が入っていないように見られてしまうのは無意識的行動の顕在化ができていなかったからでしょう。

大学を辞めるという選択肢は今までの行動や恩恵の連続を反故にするというわけではないはずなんです。これは前向きに、点と点がつながって線になっていく、目標への道筋になっているはずだと思えば、多分そうなるんだと思います。

あとは全ての事象の比較検討を十分に行ってから、
大学を卒業するかどうかをもうちょい決めていきたいです。
あとほんのもうちょっとだけ、自分の弱さと向き合い続けていたいです。

2時前にきたジョナサンだったのですが、もう朝になってしまったので、朝の匂いに包まれながら、環状線の帰路を楽しんで、家で寝たいと思います。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?