公演後に稽古場日誌のようなものを作るかもしれないと聞いたので、覚えているうちに勝手に下書きを書いてみて途中から雲行きがあやしくなって没にしたもの。

タイトルが下手くそである。

 千秋楽の第五幕。出番が終了し、カーテンコールを除いて舞台に出ることはもう無い。二度と月岡米次郎を舞台で演じることはできない上、余程のことがない限り(寺腰脚本なら有り得るが)この役を誰かがやることはない。キャラクターとしての月岡米次郎は終わった。寺腰玄に作られ、蓮池龍慈が演じて終わった。余りにも良いキャラクターだった。三ステージ目で出番がもう少し多ければな、と思い始めた。最も飲み込みの遅い自分が言えることではないが。
 舞台裏で同じく出番を終えた役者が泣いていた。公演後には役者同士で泣きながら抱き合っている人も居た。僕はそれを横目に、友人を激励する気も友人に激励されに行く気も出ずに、四ステージ目の方が上手くできたな、と思いながらそれを座組の誰に言う事も出来なかった。きっとそんなことないよ、千秋楽も最高だったよ、と座組員は言ってくれるだろうし実際そう思っている座組員も居るだろう。だからこそ何も言えずに、何も言えないことを悟って大きな声で叫びたくなった。
公演後の人々は優しすぎる。「どうだった?」なんて聞きづらい。「良かったよ」以外言えないだろう。そしてその後には褒め言葉が続いてくれるのが分かっている。素直じゃないから、余りにも素直じゃないから、褒められると分かっていながら褒められに行くことができない。
 つくづく損な性格をしている。ありがたいことに、色々な方から演技を褒められた。衣装プランも褒められた。しかし他の人達ほど素直に喜ぶことはできない。なぜならどちらにも粗があることを重々承知しているからだ。演技に関しては、息の使い方をもう少し工夫できた。キャラクター的には呼吸音を演技の一つとして、魅せ物として使えたはずだ。あとそもそも姿勢が悪い。整体に行くべきだ。衣装プランに関してはそもそも自分の着物に対する知見があまりにも浅かった。着物をもっと見ていればより良い提案ができたかもしれない。どちらも粗の一例だ。「完璧」や「改善」に対する信仰が歪んでおり、できなかったことがあるときにそれを差し置いてできたことを数えることが難しい。内省を通り越して内罰的であり、基本的に幸せが少ない。こんなことを友人に言えば、優しいから励ましてくれるだろう。自分はそれを素直に聞けないだろう。逆にそうだねと同意されたら、分かりあおうとして相手の自分と違う側面に目をつぶって、相手を偶像で捉えてしまうだろう。どちらに進んでも相手に申し訳無くなるから、何も言えずに、何も言えないことを悟ってまた大きな声で叫びたくなる。
 演劇は楽しい。皆と居るときももちろん楽しい。演劇の仕事も楽しい。何度苦戦してもずっとここに居るのが分かりやすい証拠だ。だが楽しいことは言語化しづらい上記憶に残りづらい。楽しんでいるときを写真に残しても、あとから見て切なくなってしまう。演劇が辛い理由は沢山思いつくが、演劇が楽しい理由は、楽しいから、としか言えない。楽しいことは純粋に楽しいだけでいいと思っていたので、楽しいに対する解像度がとても低い。だが楽しい時に、「何で今楽しいのか」なんて考えないだろう。あとから考えようにも記憶が不鮮明だ。だから仕方のないことである。誤解のないように言っておくとと、すごく楽しくて幸せだった。だが楽しいも幸せも、文章にすることが苦手だ。素直じゃないから。

 何も言えない、言葉にしがたいことを芸術として表現するのは常套手段であるし、改善に対する執着はアスリート向きであるかもしれない。しかし自分は余りにも気まぐれである上、容量が悪くまた俗世を捨てきれない為その類には成れない。成る気に成れない。だからこそ月岡米次郎の役を貰ったとき、なんの巡り合わせだろうかと思った。月岡米次郎は人間ではなく絵師だ。憧れはあった。自分もそうなるべきだったかもしれない。自身の気質を利用し、俗世との関わりを断って何かを残せる人間になる努力をするべきだったかもしれない。しかしそう勘違いして何人の人間が幸せになれなかったのか、何人の人間が笑われたのか、容易に想像がつく。だから僕はそうなろうとしなかった。手近な幸せに甘んじようとした。しかし変に育った気質が邪魔をして甘んじることができなかった。脚本を読んで思った。自分はどちらの船からも落ちたのだ。
 自分がどこに進もうとしているのか、ずっと考えていない。ここ数年は手近にある課題に甘んじて努力しようとしている。自分で仕事を増やして自分で苦しんで何か成し遂げた気になろうとしている。こんな話、面と向かって人には言えない。この文章を公演直後に上げることすら本当ははばかられる。楽しんでいないと誤解されそうだからだ。そうではないのに。楽しむときはバカなことを言って何も考えずに楽しんでいて、今はただ気が向いたから冷静に考えごとをしているだけなのに。
 
 心の底からよせばよかったと思った、けれどももう遅い。この言葉が好きだ。役者をやれてよかった。
 

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