大入りで言おうとしていることの9割は言えない

 かと言って原稿を用意するのはクサい。こういうのは大入り後にやるべきだろうが、温めて大入り後に出すものでもない。今の感情は今出したい。

寺腰脚本を外から見るのは初めてだった。だから、正直見るのが怖かった。
本番まで楽しみにとっておきたいから!と言って脚本も稽古もゲネも見ずにいた(音照稽古の横で折込作業やってたときはさすがに目を奪われたが)が、楽しみに取っておきたいなんて考えは無くただ見たくなかった。見たら羨ましくなってしまうから。

が、今日さすがに見させてもらった。真っ先に出た感情は嫉妬だった。何でこんなに良いものを、面白いものを自分は客席で見入っていることしかできないんだろうか、と。沢山笑った。好きだなあと思うシーンが多くあった。それでもやっぱり羨望と嫉妬が先立って出てしまい、皆は役者面会で互いを労い合うのに、また自分は自分のことばかりだ、と思ってしまった。最近気づいたが、自分は演劇自体に興味はない。自分の大学の周りにある演劇界隈や、演劇を主軸にした自分の人間関係、そこでどれだけ自分が頑張れるかに興味があるだけだ。何だかんだ野田秀樹とかを見てないことはそれで理由がつく。現に、今だって本編の内容に1ミリも触れていない。(触れて話すことはできるが、言葉にするとどうしても離れてしまうので自分からはあまりしない。今回もそうだが、言葉にしないだけでとても幸せな気持ちで見ていた。)

同期の扱える役柄の広さに、成長ぶりに、安定感に、必死さに、楽しそうな様子に、自身の舞台上の不在に、悔しさを感じた。劇を見てから今に至るまで、激しくない分、ねっとりと続く悔しさは感じたことのないものだった。悔しいだなんて、よく一丁前の役者みたいなことが言えるな、とも思った。第七夜で調子に乗って役者としての自我が芽生えたせいだろう。芽生えてからがスタートラインだと思うが。

悔しい。苦しい。まだ今はそれらを新鮮に感じることができる。それすらも感じられなくなったときのことを考えると恐ろしくなる。悔しさも苦しさも感じることができて幸せだった。だから、同期達にはその気持ちをどこかで返したい。仲良くするのは誰とだってできるが、傷つけ合えるのは同期だけだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?