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論理とお気持ち

スーパーに行くと並んでいる野菜。それを作る人がいて、運ぶ人がいて、売る人がいる。今までそんなことに関わったことのない私には、それぞれに関わる人が尊く思える。

同時に、自分1人で生きていくのはやっぱり無理だなーとも思う。色んな人のおかげで生きていられるだなーと。

だからきっと、生きてる間は誰かと関わっていくと思う。10年後もその先も。

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「論理的に正しい」はナイフみたい

「論理的に正しい」はナイフのようなもので、使い方を誤ると使用者がケガをするものだと考えている。

例えば誰かのちょっとしたミスが発生した時。

責任を個人に追求し、それを論理で詰めたとする。相手がそれで納得する場合もあるかもしれないけれど、逆に反論されることもある。

当たっているのに反論できない説明によって、自分の感情が傷つけられたと感じるからだ。

結果、逆ギレと言われても反論をして自分を擁護するか、そのまま受け入れて自分には存在価値がないんだと思うしかなくなる。

(と、ここまでは↓を参考にしながら自分の意見をプラスしています。)

これだと問題解決にはならないし、誰も得をしない。

仕組みに追求したい

問題を解決したいのであれば、問題の原因を仕組みに追求することだ。

例えば、おつかいを頼んだのに相手が買い忘れた時。この時に、どうすれば買い忘れなくて済むかを考えることだ。

直前に連絡する、アプリ等でリマインドする、いっそネット注文する等の方法が考えられる。

このように、人ではなくコトに向かって論理的に考えられれば、相手が憤慨することもない。これが、仕組みに原因を追求することだ。

あえて喩えるなら

根拠立てて個人の責任を追求することは、銃でその人を撃ち抜くことに似ていると思う。個人への責任追求は、相手にダメージを与えることだから。
特に、根拠が客観的に確かであればあるほど、相手に与えるダメージも大きくなる。

なので論理的に責任追求する時には、強い力で反論されることや武力を持って反撃されることも覚悟せねばならない。

相手は詭弁でもなんでも使って反論するかもしれないし、殴られるかもしれない。相手が反論できない論理を使うのは、それほど強い衝撃を与えることだと理解した方がいい。

言葉を用いたとしても、撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけなのだ。

おわりに

(とまあ、最後は言いたかっただけなのですが)
論理的に正しいことがコミュニケーション手段として適切とは限らないことを理解し、他者と関わりたいと私は思う。

それが楽に生きていく方法だから。

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