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ドレーンとシャンプーと母の思い出

手術後の痛みと腕の可動域の狭さや握力低下に翻弄されて迎えた、一般病棟に戻った最初の日の夜。

左胸の脇の所から出ているドレーンの管が、100均のハードタイプの保冷剤みたいな形のプラスチック容器に繋がっていて、この中に血液?浸出液?が溜まっていきます。

管の中も最初の内は赤い血が見えていて、容器の中も赤。
他の人の目に晒して良いものでは無い見た目ですし、容器を抱えて歩くわけにもいかないので、サコッシュみたいな肩掛けバッグに入れて連れ歩きます。

どこに行くにも一緒なのでオトモと呼ばれてるらしいコイツを、24時間気にしてなきゃならない。

寝る時は、バッグの肩紐を軽く結んで 長さ調節してベッドの手すりに掛けておくんだよ、と教わりましたが、なんか怖い。

寝てる間に なんかやっちゃったら どうしよう…管抜けちゃったら どうしよう…てか、どうやって寝るのが正解?

(管はガッツリとテープで身体に固定されていて、滅多なことでは抜けたりなんかしない…なんて、この時点では理解出来ておりませんでした)

それに加え痛いのも手伝って、寝付けないやら 何度も目が覚めるやら。
目が覚める度に、管とバッグを確認する。これの繰り返し。この日だけでも個室状態だったのは助かりました。

手術前日、能天気に寝ていた私ともあろうものが、このザマです(笑)

朝のチェックで、頭が痛いと訴えた記憶があります。なんせ、まだ『人生終わった』とか思ってた時期でしたから、なんでもかんでも悲観的です。

看護師さんには「気圧もあるかなー」なんて、軽くいなされましたけど(笑)

身体の中から出てくる液体の色が薄まって、透明感が出たらドレーンとお別れ。そうしたら いよいよ退院。
という流れだという説明でしたが、私の場合は 想定より少し手間取ってしまったようで、

「うーん…そろそろ抜ける頃かと思ってたんだけど、まだ様子見かな?赤いなぁ」

こんなセリフを2~3回ほど聞きました。確かに、管の中は いつまでも赤が目立っていたように思えます。比較対象がないので、あくまで主観です。

なんやかや、いつの間にやら、私のオトモに対する扱いも随分とぞんざいになっていて、立ち上がった時に管に引っ張られそうになったり(立ち上がる前に肩に掛けておきましょう)後半、なんか色々やらかしましたが、まぁ大丈夫でしたね。

問題も起きませんでした。

様子見が長引いたのも、このせいじゃありません…多分。

まこと…慣れとは恐ろしい(笑)

とにかく、抜けないとシャワーの許可も降りないので、シャワー浴びたい!シャワー浴びたい!って毎日言ってました。

頭だけでも!って、洗髪スペースでシャンプーだけさせてもらったりしました。
左手が思うように上がらないので大変でしたが、洗ってくれる人はいないので頑張りました。

昔むかし、亡き母が乳がんで入院していた時は、私が髪を洗いに行ってあげてたんですよ。
コロナなんて概念がない時代のオハナシなんですがね。昔は、手術前に何日も検査入院をしてから手術をして、手術後もかなり入院してましたね。

ちなみに、↓ 母の最初の入院の時のエピソードが書いてあります。病気関連ではなく、編み物関連のお話です。

これを書いた時点では、自分も乳がんで手術する未来なんて頭にありませんでしたね。

母も全摘。何年か後に もう片方も全摘したので、両胸を失う形になりましたが…

なんというか、バランス取らなくて良くなった分、下着は開き直ってパットが無いキャミソール型の肌着?を着用するようになってました。

私と違い豊満だったんで、片胸時代にはパットを手作りしてました。父の古くなった肌着で(笑)
めんどくさかったんでしょうね、今の私なら分かります。裁縫の達人の母でも試行錯誤してたんだと思います。

当時は私も子供だったんで、あんまり気にしてなかったんですが、ちゃんと見ておけば良かったなぁ…話も聞いておけば良かったなぁ…なんて、時々考えたりしています。

まぁ、当初、私には乳がんだったって事も隠していたくらいなんで(すぐバレたけど)話してくれたかどうかは謎のままなんですがね。

さて、すっかり、ドレーン→シャンプー→母の思い出話へと横道に逸れてしまいましたが(横道は最早お家芸)

次回へと続きます。

・・・・・どう続くんだろう?(笑)

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