コロナ騒動ボスの良心的な責任を問う

コロナ問題の記事を書く中で、ひとつ、気がかりなことがある。

それは、

「ひょっとすると、このまま人類がコロナで消えた方が、人類が永遠に生き残るよりも長い目で見れば、あらゆる魂たちにとって苦しみ少なく、より良い結果になるかもしれない…」


というような気がかりだ。


矛盾しているように思われるかもしれないけれども、現在の人類の大半が家畜たちを故意に繁殖させて、殺し、その肉を嗜好品として食べ続けることをよしとしてやめないのであれば、家畜全体の幸福について考慮するなら、そうした見方もできる。


いわゆる自業自得とか、因果応報とか、まあ、魂の公平性というような観点から見れば、人類が、今のままでは生き残る資格があると断言できないような気がするのだ。

とはいえ、少ないながらもそうしたことを意識的に自分の意志でやめて動物たちを守ろうとしている人たちもいるし、他のいろいろな方法で命がけですべての魂を助けようとしている魂もいる。

ただ、現状のコロナ問題について言えば、もはやそうした次元ではないと感じた。

つまり、人類やこの惑星を好き放題に支配しようとする利己的な支配欲が、もう、良心的な魂たちを守るということよりも重要になってしまっていると感じたのだ。


そうであれば、本末転倒だ。

少なくとも、コロナ騒動においては、そう感じる地点にきた。

現状のワクチンの強制接種は、良心的な魂の生殺与奪権を世界統治者たちが握ることにつながると感じる。


だが、それをさせるわけにはいかない。


だが、本当に必要なのは、あらゆる魂の体験を自分の体験だと感じることができる良心的な魂たちこそが、この世界やこの惑星の統治権を手にすることだ。


現在の世界統治者たちは、良心的な魂たちと仲間になって一緒に世界統治をしてゆこうとしていない。

むしろ、良心的な魂たちを邪魔者として、なんとか封じ込めようとしているふしが随所に感じられる。

こうしたことが、コロナ問題について記事を書くことにした理由になっている。

そして、じゃあ、人類たちに毎日殺されて、また繁殖させられて、延々と殺されては、嗜好品として食べられる…家畜たちや、その他動物たちはどうなってもいいのかといえば、そんなわけない。

ただ、言えるのは、そうした欲望が人間に不当に植え付けられていると思われることだ。

つまり、個々人の人間は、自分で自分の欲望を自由に選べる状態にはないということだ。

欲望があってもそれを実行しないという自己制御能力を持っている人はそれなりにいるだろう。


しかし、それは


「欲望を完全に自分の意志で自由に消したり、発生させたりできる」


ということではない。

ただ、欲望や本能を、必死でがまんして抑圧できるという状態では、ぜんぜん自由な状態ではない。


本当の自己責任とは、100%の自由のもとにおいて、はじめて100%の責任となる。


だが、人間のほとんどは植え付けられている欲望や本能や気分や感情やその他いろいろな自分の意志で自由にON、OFFできないいろいろなものに呪縛されている。


つまり到底、100%の自由など人間は手にできていない。


ある者にとっては、その呪縛は指輪をしている程度でぜんぜん緩いかもしれないが、ある者にとってはその呪縛は身動きできないほどのがんじがらめの呪縛である可能性がある。


欲望の程度は、目に見えて測定できないので、個人差がかなりあるからだ。


石が詰まった1トンのリュックを背負って人は自由に歩くことはできない。
そこには明らかな無理がある。
だが、リュックが同じ大きさに見えても中に綿が入っていて重さが1キロであれば、問題なく歩ける。

人間や生命たちには、そうした不公平が明らかに存在している。

であれば、悪い欲望によって、悪いことをする人たちが、あるいは動物たちが……果たして本当に消されるべき悪者なのか?という問題がある。

そんな状態で、1トンのリュックの者が歩けないのは自己責任だから罰を与えるだの、殺すだの、そんなことは許されない。
綿のリュックの者だけ依怙贔屓して救うとかも許されない。

つまりコロナ騒動がそうした人間たちの選別のためであるとしても、、私が出した結論は、それは 良心に反している だ。

そんな不条理なことは認められない。

それはいじめだと感じる。

私は、人間に向かって今、問いかけているわけではない。

人間を創造した者たちに向かって問いかけている。

そう、例えば、全知全能なる世界の創造主的な存在たちだ。

このような複雑な生命世界が偶然発生したわけがない。

もし偶然であるならば、それはまるで、自動車が砂漠に偶然に自然発生するようなおかしさがある。

だから、私は生命たちの創造主のような存在がいると思っている。

そして、このコロナ騒動の茶番だ。

この茶番を生み出した最高責任者たちは、そうした生命や世界の創造主たちであると感じている。

そして、思う。

もし、人間が家畜を殺して食べ続ける状態だとしても、その結果への責任は、人間たちに、あるいは肉食動物たちにそうしたくなる欲望を故意に植え付けた人間や生命たちの創造主たちにこそあるはずだろう?と。


であれば、このコロナ騒動は、いったん収束させて、そうした魂同士が苦しめあう悪い欲望や本能や……を取り除く苦痛のない治療や癒し方法を研究し、提供してゆく方向にチェンジしなければならない。

方向転換だ。

そもそも、動物も人間も、そこに互いに苦しみを与え合うような本能や欲望や気分や…が一切なければ、むしろ、それと逆の欲望や…があれば、みんな仲良く楽しくやってゆけるのだ。


遺伝子組み換えワクチンという触れ込みによって、新型コロナワクチンというものが、あるいは、そうした悪い欲望などを苦痛なく取り除く良い薬であるのかもしれないという期待がわずかにあった。


しかし、結果は、それを否定した。


あろうことか、良心的な魂たちの自由や人権までワクチンパスポートや職域接種の強制などで、茶番コロナ演劇を使って抑圧し制限しようとしはじめている。

茶番であることは、はじめからわかっていた。


だが、それがひょっとすれば良心的な善意の茶番であるかもしれないという期待があった。


だから、言わなければならなくなった。


この世界規模のコロナ騒動を、状況証拠から判断しなければならないと。


発生している結果が、状況証拠が、良心に反したものである以上、この茶番は認められないのだ。


現在の世界統治者たちには、「良心」の自由を奪う権利も正当性もない。


既存の法律がどうであれ、そんな自由や権利はない。


なぜなら、良心があらゆるルールの最高法規だからだ。


良心とは、


「あらゆる魂に望まれない体験の強制をしないようにと意志し、その前提で、あらゆる魂が、その望む体験をできるだけ多様に自由に選び楽しみ続けれるようにと意志する心」


もっと簡単に言えば、


「あらゆる魂が自分の意志だけで自分の体験のすべてを望むように制御して楽しめるようにと目指す心」


だ。


この良心に反した法も、統治も、行為も認められない。


いわんや…命がけでできるだけの魂を救おうとする良心的な町医者を確信犯で工作員に攻撃させるなど、論題だ。


許されることではない。


その魂たちをこの世界のピラミッド統治システムを使って支配するボスの自業自得の責任を問うために、私は、こうしたコロナ関係の記事を書くことにしたのだ。


この体験強制ピラミッドシステム世界において、強制してきた望まれない体験のすべてを永遠に味わい続けるという責任だ。


その責任を自覚し、今後の世界統治方法を良心的な方向に大修正するべきだろう。


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