世界創造主と世界統治者の責任8(合格点に達しなければ不合格)

おそらく…世界統治者たちの一部の者たちは、自分たちは他の性の悪い世界統治者よりもずっとましなのに、なんで世界統治者失格などと言われなければならないんだ?

などと思ってしまうことだろう。

だが、世界創造主や世界統治者になるための資格試験は、いくら偏差値が高くても不合格になる場合があるのだ。

合格点が70点の資格試験で、ほとんどの者が一点とか二点とか…せいぜい5点とかしかとれていないような場合、30点とかを出して他の世界統治者を引き離せば、当然、自分は失格などにはならない…などと思うことだろう。

しかし、世界統治者の資格試験は、あくまで合格点以上にならなければ全員失格になる資格試験なのだ。

なぜそうでなければならないのかといえば、世界統治者という地位は世界全体の体験者の体験や運命を大きく左右させる影響力や権力を行使できる地位だからだ。

つまり、あらゆる体験者たちにとってもっとも大事な体験を身勝手に操作できてしまうような地位だからだ。

世界創造主の地位についても同じ理由で同じことが言える。

つまり、世界創造や世界統治をしようとする者たちは、他者との比較ではなく、あくまで合格ラインを突破できなければ、その正当な資格を得れないということだ。

そして、合格ラインの最低必要条件に、

「その世界に存在するあらゆる体験者たちが、自分の体験のすべてを自由に自分の意志でコントロールして楽しみ続けれるような世界を実現しよう…と目指す本気の意志がなければならない」

というものがある。

さらに言えば、その意志だけではまだ不足で、間違いなくその目標を推進できるだけの能力や知力なども当然必要になる。

やる気だけあってもまだ合格できないわけだ。

だが、そもそもその意志が持てなければ、どうしようもないのだ。

知恵や能力は、後から育成してゆくこともできうるが、

はじめの第一関門の「あらゆる体験者たちに体験の自治権を保障提供したい……」という意志が持てなければ、どうあっても合格できない。

そもそもその意志も持てないまま他の体験者たちの心からの合意納得も得ずに体験者たちを強制的に巻き込んで望まれない体験の強制が力さえあれば好き勝手にできる世界創造や世界統治をしてやろう…などと思った時点でかなりの問題であり、それを実行してしまった時点で犯罪の実行になってしまうのだ。

だから…ゆめゆめなんで自分たちは、他の世界統治者よりも成績が良いはずなのに不合格だといわれなきゃならないの?

などとは、思わないことだ。

その意志がしっかりあり、必要十分な知恵や能力があり、

「さらに、良い結果が出せていれば」

不合格などとは言われない。

だが継続的に良い結果を出すには、その意志や必要十分な知恵や能力が必要になるわけだ。

そして、実は合格点以上を出し続けることは極めて難しいことなのだ。

なぜならとてつもない体験者たちの矛盾する願いに配慮して最善の手を打ち続けねばならないからだ。
また、それが最善の手であったという説明義務も果たさなければならないからだ。そうでなければ、最低限必要な意志も持てていなかったのではないか…ということになるからだ。
また、体験者の願いや状態も時々刻々変化し続けるので、ほとんど不可能に近い難行になる。
そして合格点となる世界統治をそれだけの難行にしたのは、この世界の創造主の責任でもある。残酷体験の強制が自動的に発生するような生命創造や世界創造をしてしまったからそうなってしまったのだ。

だから、世界を一部の権力者が統治し続けれるようにしようと思わず、誰かが世界を統治しなくてもよい状態にしようと意志するとよいわけだ。

そのためには、各々が各々自身の体験を自分の意志で完全に自由にコントロールできるようにする必要がある。
そして他者の体験は身勝手に自由にコントロールできないようにする必要がある。

でなければ、誰かしらが自分以外の体験者に望まれない酷い体験を強制してしまうような結果が発生してしまうからだ。

例えば、あらゆる体験者への絶対的な支配統治システムを実現すれば、悪者はすべて管理できて平和な世界が実現するだろう…などと考える者も一部にいるかもしれないが、遅かれ早かれいつかは絶対に平和的な支配管理は長続きせず、その絶対的な支配統治システムを悪意を持った者に悪用されることになる。

つまり、自ら墓穴を掘るような行為にしかならない。
はじめはよくても、後でとんでもない結果を生み出すことになる。

今後生まれてくる世界統治者の全員が永遠に残酷な悪意を持たない…などと思うのは認識が甘すぎるであろう?

だが、あらゆる体験者が、自分自身の体験を完全に自由にコントロールできるようにすれば、一切の統治行為は必要なくなる。

そして、誰かが残酷な悪意を持ったとしても、他者が自分の体験を完全にコントロールできるようになっていれば、その他者はその悪意をすべて無効にし無視し拒否できることになる。

この違いをよく理解する必要がある。大きな大きな違いだ。次元が違う。
進むべき方向がまったく違うのだ。

つまり世界統治者たちは、その権力を統治が不要になる世界を実現させるために上手く使う責任や義務があると理解するといいだろう。

権力というトゲを持って刺さっている痛みを生み出し続けるトゲを抜くわけだ。

そしてトゲが抜けたら、もう刺さっているトゲを抜くために使ったトゲは必要なくなるので、捨てればいい。

そして皆で大いにありとあらゆる望ましい無数の体験を自由自在に楽しめばいいわけだ。
それがあらゆる体験者全員の目指すべきゴールであり、最終目的地だと理解するといい。

ん? でも、それでも他者を支配する体験がしたいって?

ならば、そうした支配被支配体験ゲームが心からしてみたいという体験者たちを募って、したくない体験者たちは巻き込まずに支配被支配体験ゲームを支配者と被支配者の役まわりを心からの合意をもって交代しあって愉快に楽しめばいいだろう。

嫌がる体験者を無理やり巻き込む残酷体験強制ゲームなどを、とにかくそうしたいから…などという理由で実行してはならない。

当たり前のことであろう? それとも自分がどうしても味わいたくない嫌な体験を永遠に強制され続けてもいいと思うのか?

それでもいいと本当に思うのなら、そうした危険な体験ゲームをしたいと心から願う者だけで、そんなことは願わない体験者を巻き込まないようにして、そのリスクを心から納得覚悟した上でそうしたゲームをやればよかろう。

それが参加や離脱が自由なゲームなら嫌になれば自由にやめれるだろうが、そんなゲームに参加したくない者たちまで強制的に巻き込んでそうしたゲームを実行すれば、自分もまた参加したくない体験ゲームに強制的に巻き込まれる自業自得の責任と償いの義務を負うことになる。

そのような選択は、自分にとっても他の体験者たちにとっても望ましくない結果を生み続けることになるので選択を改めるべきだろう。

他者の体験の自治権をいくら完全に奪ったところで、自分の体験の自治権は得られないのだ。むしろ、そうすることで自分の体験の自治権を失ってゆくことになる。



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