世界創造主と世界統治者たちの責任1

この世界のほとんどの生命システムは、一部の創造主たちや世界統治者たちが、他の体験者たちに好き勝手に望まれていない各種の体験を強制できるようにするための「体験強制収容所」として設計され、創造された。

あるいは、どこかの時点でそのような邪悪な意志を持った者たちが介入してそのようなことができるようにした。

それが真実であるということは、ただこの世界の生命システムをよく観察し、調べれば簡単に理解できる。
つまりは、そうしたとんでもない大犯罪の現行犯の証拠が今もこの世界のいたるところに存在している。

弱肉強食という残酷劇が自動発生するように設計した生存本能が生命たちの多くに植え付けていることは、明白な事実であり、そうした残酷な状態やその結果発生した残酷劇が生命システムのいたるところに少しその気になって調べるだけで観察でき、発見できる。

つまりは、この世界を創造した者たちは、わざとそのような残酷劇が発生するように生命システムを設計し、創造した、あるいは改悪した…ということになる。

そして、この世界の統治者たちのほとんどが、そうした残酷システムを根本から改めようとしていない状態であると理解できる。

なぜならば、世界の中で生命の食い合い弱肉強食システムを改めようとしている権力者は、ほとんどいないからである。

この世界の権力者たちのほとんど全員が、残酷な家畜利用文化を容認していて、さらには、自らも哀れな家畜たちを屠り続け、それに舌鼓を打って楽しみ、そうした行為を良心に反した恥かしいことだとすら思わず、よって当然のごとくに家畜文化を改め、止めてゆこうとする政治政策も経済政策も、その他の改めるための活動も推進してゆこうと主張しない状態であることは明白な事実である。

こうした選択をその自由意志において選択した世界創造主たちや世界統治者たちの「自業自得の責任」は問われなければならない。

「自業自得の責任」とは、他者からの心からの納得合意なく故意に強制した酷い体験を自らも受けねばならないという責任であり、義務である。

自らその自由意志で望んで、あるいは、いろいろな種類の賄賂を受けて…他の体験者たちの体験や運命や心身の状態を体験者たちからの心からの合意もなく好き勝手に支配操作できる地位につき、またそうしたことができる力や権力を得たのであるならば、そうした自業自得の責任は当然のごとくに発生する。

そのような者たちには、特に故意にそうした選択をした者たちには、一切の情状酌量は、認められない。

情状酌量は、完全に騙されていたり、耐えがたい拷問などで脅されて、そうした犯罪行為に協力することを強制されたような者たちだけに認められうる。

なぜなら、そうしなければ、自分以外の体験者に拷問体験を強制する行為が自分勝手な適当な理由をつけるだけでいくらでも認められてしまうからである。

であれば、いつまでたってもそのような拷問体験強制世界が存続してしまうからである。

そして、望まない酷い体験を強制されることは、あらゆる体験者たちが望まないことであり、そのような拷問体験の強制が好き勝手にできる世界は、改められない限りその存続そのものが否定されなければならないのであり、であればそうした拷問体験が好き勝手に強制できる世界を存続させようとする選択そのものが間違った選択であり、そうした拷問体験を強制できる状態にすることに故意に加担する者たちは、そうした加担行為を改めない限り存続してはならない者たちであると理解しなければならない。

それゆえに、拷問体験を強制できる世界を改めようとする意志をその自由意志で持とうともしないままに、自分だけうまく生き残り、自分だけ望む体験ができればそれでいい…などとしか思えない魂たちは、生き残るべき魂ではないと判断されるのはやむを得ないこととなる。

このような判断は、あらゆる魂=体験者たち全体の安全確保のためのやむを得ない判断となる。

もっとも、可能ならばそうした間違った選択をしてしまう原因を取り除き、治療してあげることがより望ましいことであることは言うまでもない。
しかし、そうした治療行為が不可能か、あるいはそうした治療方法を研究し探す行為そのものが妨害されていてほとんど不可能に近い状態であるような場合は、そうした判断をすることも仕方がないと判断される。

さらに、そうした治療行為を積極的に妨害し攻撃してくるような相手においては、そのような行為を放置する選択はしてはならないし、そのような者たちが生き残れるようにしてもならない。

「命が一番大切だ…」とは、この世界の肉体に宿っている体験者たちがよく言うセリフである。

しかし、この世界の肉体のほとんどが、ただの「体験強制装置」であり、特に多くが「拷問体験強制装置」となっている。

であるならば、その「肉体としての命が一番大事だ…」という価値観は、間違っている。

邪な利己的な生存本能などを肉体に植え付けられているから肉体や命が一番大事だと感じるのであって、理性と良心をもって冷静に考えるならば、命が一番大事ではないことが理解できる。

であれば、何が一番大事なのかと問われるならば、

★「あらゆる者が自らのあらゆる体験を自分の意志だけで自由に選べて楽しめるような状態や世界を確保し、推進し、そうした状態や世界を守ること」

であると理解しなければならない。

そうした世界を実現し推進してゆくために「体験の自治権」という価値観を何度も説明し、あらゆる者が「体験の自治権」を得られるように目指してゆくよう何度も説明してきた。

しかし、結果としてこの世界の世界創造主たちや世界統治者たちは、そうした方向に世界を修正してゆくという選択を「わざと」しなかった。

それは世界に発生した「結果」を見れば一目瞭然である。
このような体験強制型のピラミッド世界においては、その世界に発生した結果とは、その上意下達のピラミッドシステムの頂点に存在する世界創造主たちや世界統治者たち……の自業自得の責任の程度を判断するための試験の結果なのだ。

大地震や異常気象や毒の強制摂取や心身への身勝手な遠隔操作やそうしたことを推進するための情報統制や良心的な魂たちへの基本的人権侵害やわざと生み出す戦争……などは、膨大な体験者たちの「体験の自治権」を不当に剥奪する……という結果を生み出している。
つまりは、体験の自治権を保証提供するという結果ではなく、体験の自治権を奪う…という結果をその支配統治行為の大勢において生み出した。

よって、確信犯における自業自得の責任が確定し、断罪された。

そのような選択をした者たちは、その自由意志の選択によって故意に自分以外の体験者に強制したあらゆる望まれていなかった体験のすべてを自らも受ける義務がある。

そうした選択を心から反省し、自発的に償いをはじめるまで…その選択で強制してきた他者が望んでいなかった酷い体験を受け続ける義務を負うことになった。

少なくとも、そうした自らの選択を反省し、恥じ、改めよう、償おうと思い、その償いを実行しはじめない限り、その責任や義務は消えないものと理解しなければならない。

特に、この拷問体験強制収容所(体験強制ピラミッドシステム)の所長にあたる者たちには、その拷問強制収容所で発生したありとあらゆる拷問体験すべてについての責任が発生していると理解しなければならない。

つまり、少なくとも、この人類の歴史のみならず、生命の歴史全体における個々の体験者たちに望まれていなかった体験のすべてを再体験する義務が発生する。
そして、そうした選択を改める意志を持ち、償いをしようと決意し、さらに、その償いに「成功」しない限り、この義務が消えることはない。

いくら償うつもりでいろいろ努力したのだと言っても、実際に償いにならないような「結果」が発生するような行為をいくら繰り返しても、それによってこの義務が消えることはない。

あくまで償いに「成功」しなければならない。

この場合、「償いに成功する」とは、あらゆる体験者たちが、自らの意志で自らの体験を自由に選び心から楽しめるような状態や世界をまさに実現させることに他ならない。

償ったつもり…では認められない。

そうした結果が誰が見ても明らかに全世界レベルで確認されるまでは、償いがなされた…とは判断されない。

それが、世界創造主たちや世界統治者たちが理解しなければならないことである。

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